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「アフガン・イラク・北朝鮮と日本」掲示板・過去ログ集112('06.04/01〜04/10)

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これでよいのか介護保険。  投稿者:ぼんくらおじさん  投稿日: 4月10日(月)20時06分7秒
  母が脳梗塞で倒れてから、気が付いたことなのだが、日本の医療・介護って、ずいぶんお寒いというか、冷酷といったほうがいい現実を思い知らされた。入院して、1週間も経つか経たない内に、転院とか退院の話を持ちかけられたのである。私としては、突然、転院とか退院と言われても途方に暮れる。

今になってわかったことなのだが、急性期を扱う病院は、とりあえずの治療が終わると、どんどん退院させてしまう仕組みになっているのだそうである。あとは、ご家庭の経済状態に合った介護施設なり、病院なりに転院するか、ご自宅で、介護してくださいという仕組みなのだそうである。そういうことをまるで知らなかった。

それで、問題は、後を引き継いで受け入れてくれる介護施設である。いつも受け入れ可能なら問題はない。ところが、300人待ちとかいう現状では、いつになるかわからないのだ。患者とその家族はどうしたらいいのだろう。結局、一方では退院をせまり、一方では受け入れ困難な状況を現出しているのが今の日本の医療・介護の現状だ。その狭間で患者は捨て置かれてしまう。

高額の介護施設なら、さぞ空きがありそうに思えるが、それがあにはからんや、相当に待たねばならないらしい。しかもこういうところは3ヶ月しかいられない決まりになっているので、次々に転院を繰り返さなければならないという。比較的安いところは、どうかというと、こちらも当然、満床でいつ入れるかわからない現状である。

介護保険、取られるだけ取られて、人生の最後にお世話になるところが、あっちこっちたらい回し。おかしな法律。こんなのペテンじゃないかと言いたいくらい。デイ・サービスは大流行のようだ。老人クラブみたいなものだからな。実際、業者にとって、これが一番儲かるのかもしれない。ところが、まもなく人生を閉じようとしている患者を受け入れてくれる施設はとても少ない。
 

ペルーとイタリアでも、ご当地版「小泉政治」に止めを刺す事が出来るか?  投稿者:社会主義者  投稿日: 4月10日(月)10時23分40秒    編集済
  ●ペルー大統領選 反米ウマラ氏優勢 貧困層も支持(産経新聞)

>九日に投開票が行われるペルー大統領選で、左派民族主義者のオリャンタ・ウマラ元陸軍中佐が世論調査の支持率でトップに立っている。出馬表明当初は有力候補でなかったウマラ氏だが、中南米の半数の国で左派・中道左派政権が誕生しているという「左旋回の波」に乗り、フジモリ元大統領の支持基盤だった貧困層がウマラ氏支持に回っていることから急速に支持を広げた。ウマラ氏は反米を旗印にしているベネズエラのチャベス大統領、ボリビアのモラレス大統領と親交があり、米国も行方を注視している。<
 http://www.sankei.co.jp/news/060406/morning/06int003.htm

●伊総選挙の投票始まる 親米政権存続が焦点(共同通信)

>ベルルスコーニ首相の与党、中道右派連合と、プローディ元首相率いる野党、中道左派連合が激しく競り合うイタリア総選挙は9日、投票が始まった。10日も投票があり、10日午後(日本時間同日深夜)にも大勢が判明する見通し。
 ブッシュ米政権が主導したイラク戦争を一貫して支持、イラクに派兵してきたベルルスコーニ首相が政権を維持できるかが焦点。選挙戦では、第2次大戦後最悪とされる経済停滞の打開策をめぐっても左右両陣営が火花を散らした。
 3月下旬の最終世論調査では、左派が5ポイント強リードしているが、20%以上ある浮動票の動向が鍵となる。<
 http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=DLT&PG=STORY&NGID=intl&NWID=2006040901001512


 ペルー大統領選挙はウラマ氏が頭一つ抜け出たまま決選投票に持ち込まれる公算が大きくなりました。日本以上に「新自由主義の実験場」とされてきた「米国の裏庭」の中南米での変革の波に、引き続き注目です。
 それにしても、「財界準機関紙」の中にもまだ比較的まともな記事もあるのねえ。
 ちなみに、現地の出口調査によると、ウマラ候補(民族左派)が得票率29.6%で決選投票への進出確実で、2位は、得票率24.5%のガルシア候補(中道左派)と同24.2%のフロレス候補(右派)が僅差で争っているとの事です。
 http://www.chunambei.co.jp/

 イタリアでの政権交代も、ホリエモンばりのメディア支配と小泉的政治手法で政権を維持してきたベルルスコーニが退陣する事にでもなれば、米国ブッシュの進めるイラク戦争も更に打撃を蒙る事になるでしょう。こちらは9日・10日の二日間にわたって投票が行われ、大勢が判明するのは10日夕方(日本時間では同日深夜から翌日未明にかけて)です。投票率の推移如何で結果が大きく変わる可能性もあるとの事です。
 http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=RANDOM&PG=STORY&NGID=intl&NWID=2006041001000406
 

「辺野古移設は普天間問題を北部に持っていくだけ」(伊波洋一・宜野湾市長)  投稿者:社会主義者  投稿日: 4月10日(月)09時04分15秒    編集済
   沖縄タイムスに続いて琉球新報の社説でも、普天間移設問題(その実は単なる「たらい回し」)について、政府の対応を厳しく批判しています。

●普天間修正合意・抜本的解決策にあらず/危険は残されたままだ(琉球新報)

>この合意で、普天間移設問題は新たな段階を迎えたことになるが、釈然としない。結局は、辺野古のキャンプ・シュワブ沿岸部での微修正をめぐる協議に矮小化(わいしょうか)して協議を進めた政府の戦略にはまってしまった感がしてならないからだ。<

>小手先の回避対策<

>確かに、風向きによって離陸用と着陸用を使い分けることによって、住宅地の上空通過を回避した。しかし、松田区の近くでは海岸線すれすれに飛行経路が設定されている。住宅地を外れているとはいえ、安部区周辺では飛行経路が陸域をかすめている。
 航空機のトラブルは、多くの場合、操縦不能の状態と想定されるわけだから、完全な危険回避とはいえない。どんなに対策をとったとしても、基地が近接すれば、常に航空機事故のリスクを背負うことになる。<

>名護市が当初、政府に要求したのは日米間で昨年10月に合意した沿岸案を400メートル以上沖合に移す大幅修正だった。その理由は、安全性への懸念と騒音問題。安全性は滑走路の修正でクリアできたという認識に立ったとしても、騒音問題はどうなのか。また辺野古沖移転案で最大の問題となった環境保全は解決できるのか。<

>1998年に就任した稲嶺知事は、99年11月に辺野古沖を移設先に選定し、「軍民共用」と基地固定化の歯止めとなる「15年使用期限」を移設条件に掲げて、政府、名護市と軍民共用化を軸とした基本計画を策定した。今回の修正合意で2つの移設条件は完全に白紙化されたとみていいのか。
 それを肯定するなら、基地固定化の歯止めとなる強力な手段が失われることになる。7日に署名された合意書にも、固定化に制限をかける文言は見当たらない。名護市民、周辺自治体住民、さらに県民は、恒久的な新たな基地建設を許容するのだろうか。<

>県外・国外移設がベスト<

>ここで決して忘れてならないのは、県民大多数の意向である、普天間飛行場の「県外・国外移設」である。
 辺野古沖合案の変更、沿岸案の提示、それにかかる政府と名護市との修正の綱引きで、「辺野古地域への移設ありき」だけが一人歩きしてしまい、すべての論議がそれをベースに進められてしまった。
 根本的に問題となっていたのは、基地の危険除去のはずである。<

>伊波洋一宜野湾市長も述べているが、辺野古沿岸への移設は、「普天間問題」を北部に持っていくだけにすぎない。住宅地の上空を飛行することは避けられたとしても、「危険」が移設地域に近寄ってくることだけは、まぎれもない事実である。<

経済的振興策を示しつつ、辺野古地域住民に、命にかかわる危険を押し付けたと見られても仕方ない。いくら国防のため、と説得されても、納得できるものではない。
 普天間代替基地が、もし合意案の通りに移設されれば、子や孫の代まで固定化されてしまうことになるだろう。本当にそれでいいのか、いま一度、問いたい。<
 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-12630-storytopic-11.html


 それに引き換え、「政府広報紙」「小泉政治応援団」「番記者・御用聞き」新聞と化した本土の大手商業マスコミは、「先に日米同盟在りき」「お上のやる事に口出しをするな」と、戦争・差別社会の「現実」肯定の上にたっての「忍従と諦め」「銃後の心得」をひたすら説くばかり。「財界準機関紙」の下記「提灯記事」を筆頭にして。

・【主張】普天間移設合意 沖縄県も現実対応さぐれ(産経新聞)

>中国の軍事力強化や北朝鮮の核開発に加え、国際テロや大量破壊兵器の拡散という新たな脅威に対し、日米が協力して対処しなければ、日本の平和と安全すら確保できないからだ。<
>稲嶺恵一知事は八日、額賀長官と会談し、名護市の判断を尊重するとしながら、県としての従来の立場を堅持すると表明した。・・従来の立場とは、当初案である辺野古沖移設計画を県が「軍民共用施設」「十五年の使用期限」の条件付きで受け入れたことを指す。・・だが、選挙公約とした十五年の使用期限が認められないとして、当初案を頓挫させたのも稲嶺氏である。固執しても当初案はもはや存在しない。<
>普天間飛行場の移設は海兵隊八千人の削減や県南部の米軍施設返還と一体である。知事も負担軽減の観点から評価している。だからこそ今回の移設への現実的な対応が必要といえる。<
  http://www.sankei.co.jp/news/editoria.htm

 「普天間飛行場の移設は海兵隊八千人の削減や県南部の米軍施設返還と一体である」だなんて、こんなの大ウソである事は、この下のまことさんの「幻想」投稿でも明らかです。何を見え透いた事を書いているのだろう。
 

沖縄の負担軽減という「幻想」  投稿者:まこと  投稿日: 4月10日(月)08時05分45秒    編集済
  政府は沖縄の負担軽減策として「普天間基地の返還」と「海兵隊の削減」を大々的に売り込んでいますよね。

でも、普天間返還スキームなんて、実のところ米国政府内部では1966年の段階で「普天間基地は手狭だから辺野古周辺に新たに複合施設を造りたい」という構想を作っていた訳で(*注)、SACO合意自体が単にその米国側構想を日米両国が公式に確認したものに過ぎず、普天間返還計画が沖縄の負担軽減になるというのは「幻想」に過ぎないんですよね。

(*注)の構想に関しては以下のリンク先で詳しく解説されています。

http://blogs.yahoo.co.jp/okinawa_maxi/folder/95014.html?m=lc&p=3

米軍の側からすれば、「使い勝手の悪い普天間を返還する代わりに当初の計画通り複合施設を造れて万々歳」というのが本音なのではないでしょうか。

また、「海兵隊のグアム移転」にしても、海兵隊は常に沖縄に総員が居る訳ではありませんから(現に三分の一近くの海兵隊員がイラクに派兵されている)、「在沖海兵隊を1万8000人体制から1万人に削減する」と言っても、実数としては沖縄に駐留する海兵隊の数はそれほど減らされる訳では無い(2000〜3000人程度という試算があります)。

海兵隊に関しては「しんぶん赤旗」が分かり易い解説を載せていますので、以下にリンクを張っておきます。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-04-03/2006040303_01_0.html
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-03-18/2006031802_03_0.html

要するに、日本政府が喧伝している「海兵隊の削減」なるものも、米軍再編の一体として進められるハワイ・グアム・沖縄の一体運用の一環として実施されるに過ぎないのですね。しかも、グアムへの移転費用の7.5割〜5割程度は日本側が費用負担させられる訳ですし、社会主義者さんの言葉を借りるなら「踏んだり蹴ったり」。
 

普天間移設問題でも露になった小泉政治の末期症状  投稿者:社会主義者  投稿日: 4月10日(月)01時06分23秒    編集済
   政府の額賀防衛庁長官と島袋名護市長との間で、米軍普天間基地のキャンプ・シュワブ沿岸部への移設に関する合意案がまとまりました。新しい合意案の内容は、「米軍の集落上空飛行を避ける」という名目で、1本の滑走路を逆に2本に増やし、従来の沖合案ではなく沿岸をもっと大規模に埋立てるというものです。集落との距離も逆に縮まり藻場の破壊面積も拡大するという、正に「踏んだり蹴ったりの改悪案」ともいうべき内容です。「合意先にありき」で、とにかく「集落上空飛行回避」の形だけは取り繕うとした為に、却って以前よりも更に醜悪な内容になってしまった形です。以前のSACO合意では盛り込まれていた「15年間だけの限定移設」の話も、完全に立ち消えとなってしまっています。沖縄県民の普天間基地移設要求を口実にして、実際には逆に基地の巨大化・恒久化・永久使用を図ろうとする、「焼け太り」ともいうべきペテン的手法による、正に今の「小泉政治」を象徴するような内容です。

 既に地元メディアの沖縄タイムスが社説で下記の様に、今回の合意案の本質について指摘しています。

●[2滑走路で合意] まやかしの再修正案だ(沖縄タイムス)

>政府が名護市と合意した再修正案は、これまで固執してきたキャンプ・シュワブ沿岸案の滑走路を左回りに一〇度角度をかえるとともに、もう一本滑走路をV字型で海岸側に造るものだ。・・風向きによって離着陸を別にするという説明だが、まるで“トリック”であり、安全性が確保できるとはとても思えない。・・当然のことだが、CH53型ヘリや新たに配備予定のオスプレイも飛行は風向に大きく作用される。机上で示されたルートで終始するはずはなく、騒音にしても削減されるかどうかは不確実だ。<

>また政府が示す案では、逆L字型であった代替施設の面積が拡大する。・・西側にある辺野古の浅瀬や東側に位置する大浦湾に突き出す部分が増えることになるからだ。これでは環境への負荷が高まり、絶滅危惧種に指定されているジュゴンの藻場にも大きく影響するのは避けられまい。<

>島袋市長を“一本釣り”して政府がつくった協議の場に上げ、判断を名護市に押し付けたのは米側からせかされたからではないか。何よりも稲嶺知事が沿岸案に反対の姿勢を崩さなかったからといっていい。<

>辺野古周辺地域や県が求めているのは新たな基地を北部に造り基地機能を強化することではなく、県外そして海外への移設である。そのことは再修正案に合意した金武町長や東、宜野座、恩納村長も自覚すべきだろう。<
 http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20060409.html#no_1

 額賀長官は、一本釣りの手法で地元首長を篭絡して県と地元の分断まで図り、「せめて集落の上だけでも飛ばないで欲しい」という住民要求を逆手にとって「集落の上さえ飛ばなければそれで良いのだろう」と都合よく読み代えて、それで「してやったり」としたつもりなのでしょうが、逆にこれで、従来のSACO合意や沿岸案がすべてウソとゴマカシで塗り固めてきたものである事が、今回の一件で完全に曝け出されました。米軍基地の県外・国外移設を求める県民世論との矛盾も、今回の件を機に更に深まっていくでしょう。「四点セット」や岩国住民投票に続いて、此処でも小泉政治の綻びが露になってきました。

【関連記事】

・沖縄米軍新基地 滑走路2本に/政府・沿岸案を巨大化/防衛庁長官と名護市長合意(しんぶん赤旗)
 (従来沿岸案と今回合意案の対比図を掲載)
 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-04-08/2006040801_01_0.html
・普天間移設の諸問題
 http://www.kk.iij4u.or.jp/~isao9pw/kadena_2.htm
・「普天間」移設 沿岸修正案で合意(沖縄タイムス)
 (今回の新合意案の米軍飛行コース図を掲載)
 http://www.okinawatimes.co.jp/day/200604081300_01.html
・普天間飛行場代替施設に関する協議会(首相官邸HP)
 http://www.kantei.go.jp/jp/singi/hutenma/index.html
 

ローカル線  投稿者:まこと  投稿日: 4月 9日(日)08時04分28秒
  >名鉄岐阜市内線・美濃町線が廃線になったのも(社会主義者さん)

そう言えば、同じ岐阜県内を走る神岡鉄道(旧国鉄神岡線)も、今年末に廃線になりますね。私も一回だけ観光で同線を利用したことがありますが、奥飛騨の情緒を満喫させる良い路線でしたので、廃線は残念に感じます。筆頭株主の三井金属が赤字経営の神岡鉄道から手を引きたいとの意向を示したのが廃線決定の直接の理由のようですが。

http://www.kysd.net/now_r.html

↑のサイトに旧国鉄のローカル線を引き継いだ第三セクターの鉄道路線の現状が纏められていますが、大半の路線は経営に四苦八苦しているようです。国鉄民営化の「影」の一端がこういう形で現出している訳ですね。
 

Re:「国家の品格」の読み方(ただの雑談)  投稿者:まこと  投稿日: 4月 9日(日)07時05分46秒    編集済
  metasさんの「読み方」には異論はありますが、それはさておいても、そもそもこの「国家の品格」をそこまで考えて読み込む人って、いるんですかね?(まあ、私の意見も一般的読者に比べると、チト「読み込み過ぎ」の感はあると自覚していますが。)

「ああ、日本人は『武士道精神』や『情緒』を持って、この日本を品格ある国にせねばならないのかー」と漠然と捉える向きが読者が大多数のように思いますけど。

まあ、付言するならば、この本を読んで、著者のような「ウヨク」路線に走る人も、あまり居ないようには思いますけど。小林よしりん先生の漫画なんかと比べると、主張にパンチ力がありませんし、「ベストセラーだし一度読んでみっか、新書だから値段も手頃だし」というノリで買った人が大半でしょうし。(この私自身、この本を読む気になったのは「話題の本だから」という理由からですし)。

ただ、この本を殊更に持ち上げる一部の著名人の存在を見ると、「なんだかなー」とは感じますけどね。例えば、菅直人氏とか。前に何気なく見ていた「朝まで生テレビ」で菅氏は突如「国家の品格」を取り出して、「今の自民党政権には品格が無い!」とぶっていましたしね。まあ、直に司会の田原総一郎氏から「でも、その本には民主主義はダメだって書いているじゃない、菅さんも藤原さんと同じ意見なの?そんなの愚民思想じゃないの?」と突っ込まれていましたけどね。

個人的には「品格ある日本人」を感じたければ、司馬遼太郎氏の小説でも読んだ方が余程いいんじゃないの?という気はしますけどね。「翔ぶが如く」とか「坂の上の雲」とか。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

(追記)

そうそう、「『国家の品格』の読み方」と言えば、藤原氏の嫌いな(私も好かないが)市場主義マンセーな経済学者「先生」は、こんな「読み方」をしているようなので紹介します。

#そう言えば、確かこの「先生」も新潮新書から本を出していますよね。(リンク先にも「(『国家の品格』の)担当の編集者は、私の本の担当でもある」と書いてあるし。)読んではいませんが。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/2b365b2a38ca7996074020857aca73c4
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/7c0b4ef1081ed5510b997a2d3ec377e7
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/95c50328730cd00900909ba72d9f69f2
 

法政大学での弾圧事件について・続報  投稿者:社会主義者  投稿日: 4月 8日(土)23時42分55秒
   3月22日付拙稿「法政大学での弾圧事件について」(過去ログ集111所収)で取り上げた内容の続報です。
 http://afghan2004.hp.infoseek.co.jp/kakolog111.htm

 この政治弾圧は法政大学当局と警察による「でっち上げ」である事が明らかになり、逮捕された学生は嫌疑不十分による不起訴で全員釈放されたのですが、あろうことか大学当局は、今度は学生に対する処分をちらつかせてきています。4月5日には法・文学部教授会主宰で学生に対する事情聴取が行われ、本日4月8日には大学構内で弾圧報告集会がもたれました。弾圧抗議の「法大生の会」のブログも既に活動を開始しています。

 この事件については、今後も暫くは目が離せないようです。以下、詳細については下記ブログを参照して下さい。

・3・14法大弾圧を許さない法大生の会
 http://hosei29.noblog.net/
・詳報 4・5「事情聴取」(同上のエントリー)
 http://hosei29.noblog.net/blog/10169749.html
・4月8日(土)報告集会にご参加ください(同上のエントリー)
 http://hosei29.noblog.net/blog/10168017.html
 

迷惑投稿者のリモートホスト  投稿者:社会主義者  投稿日: 4月 8日(土)22時57分16秒
  投稿a^投稿日/投稿者:4424 04/08 21:20:53 キューピー
題名:旬な恋しよ!
本文:
陽気な季節になったね!
なかなか踏み出せない、異性との第一歩。
このサイトは、そんな弱気な貴方を後押ししちゃいます!!
*ttp://ref.tc/2z

リモートホスト:n219078191153.netvigator.com(219.78.191.153)
 

満開の桜と鉄道  投稿者:ぼんくらおじさん  投稿日: 4月 8日(土)11時43分16秒
  ローカル線に乗って旅をすると、ホームに満開の桜を見たりすることがある。ちょっとした驚きと同時に喜びを感じる一瞬である。そして、妙に腹が減って駅弁を食べたくなったりする。こういうとき、鉄道の旅っていいものだなと思う。

むかし東海道線の草薙駅には桜の老木があって毎年美しく咲いた。今はどうなっているだろうか。大井川鉄道は今も桜のトンネルの中を走る。蒸気機関車に乗れば、なおさら趣がある。

都市周辺では鉄道は高架になって、実に合理的・機能的になった。それはそれで時代の要請で良いのだが、一方で、こうした昔ながらの風景を見るとき、人はなぜか和むのである。幾多の人々が利用したであろう鉄道、そして車窓から見る風景。そこに歴史を感じる。温かみを感じる。手切りの改札口、手書きの標識、年期の入った頑丈そうな木製のベンチ、などなど。いいなあ鉄道の旅。
 

「国家の品格」の読み方  投稿者:metas  投稿日: 4月 8日(土)08時20分16秒    編集済
  何度か書いていると思うが、数学屋というものは、
「本・論文を読むときは、どれだけ偉い先生が書いたものであっても、
必ずウソ(論理のごまかしのこと)が書いてあると思って読め。」
と常々教わるので、私ももちろんどんな論を読んでも、どうしてもそのように読む。
(もちろん本筋を捉えなくてはどうしようもないのだが)
ほとんどの政治社会の論は、そう読むと軒並み「論になっていない・大嘘」なのだが、
(そのため私は必死に「心理屋モード」で読み、いやむしろ「解析」する努力をする。)
藤原氏の本はさすがに楽に「読む」ことが出来た。

で、さすがに論立てはきっちり通っているだけに、問題点を洗い出すのも容易である。
まことさんがやるような批判的検証も、さすがにまだ的を得てはいないのではあるが、
正しい「藤原氏の論の使い方」のひとつである。
例えば、私が薦めるのはこんな本を読んでみることである。
「アドラー心理学トーキングセミナー
マインドエージシリーズ 9 野田 俊作 (著) 星雲社」
これの、特に2章。
本来引用して紹介すべきであろうが、あいにく貸し出し中で今手元には無い。
やや古い本だし、「アドラー心理学の本」としては批判されることも多いが、
この対話形式の読みやすさはよい。

それと実は、少し調べて分かったのだが、
藤原氏の考えた順番は、実は大雑把に言って「本の章立ての逆順である」。
そもそも、「国家の品格」より前の著作に政治的要素は「皆無」であり、
政治団体による藤原氏の紹介で、『「国家の品格」の著者の』という枕詞が無いものもあまり見ない。
つまり7章だけがあえて言えば藤原氏の「思想」であり、
(「天才の栄光と挫折―数学者列伝」で語られている中身と、殆ど重なっている。
藤原氏の「思想性」を洗おうという意思があれば、読んでみることをお勧めする。)
そこから前を当てはめて行き着く先に「想像力」を働かせて、
7章に行き着くであろうと思われるモノを提示した「仮説」である。
(この手の「行き着く先を初めに決めて、出発点を探る」論立ては、数学ではよくある。
理論物理とかでも、現実を表せるようにモデルを設定し、そのモデルを論文にする。
それが期待通りのモノになるか、もちろん書く人もチェックするが、
基本的には「まず出してから他の人にチェックしてもらうもの」である。)
それと、「近代」に批判の目を向ける理由も見当たらない。
なにしろ近代科学、特に近代数学の成果の中に批判すべき要素は無いのだから。

まあつまり、「国家の品格」は、
「出してみたら、社会思想を語る本にも見えるものが出来た」あたりが本当のところだろう。
そして論の持つ妥当性、意味、使われ方などは、「出してから他の人が考える」。

(とまあ、私も「考える方法が同じ」ぶん、語りだすとキリが無いのでこのへんでやめておこうかと思います。)

もうひとつ添えておきましょう。
私も立場上、「微積分くらいみんな少しは分かるようにならなきゃ」とか
「社会のことを語るなら群集心理『位は』勉強しておこうよ」とか、
考えることはあるし、思わず言ってしまうこともあるが、
こういうものは広く社会に向けて語ろうとする以上は、そこに当然それなり以上の割合で存在するであろう
「まるで分かっちゃいない素人」というものの存在を許容するのが肝心であり、
理解できている人が必要なときにチェックし警告し提言する、
必要とあらば自分が率先して啓蒙する、そういうものであろうというのが私の意見です。
政治性・思想性の帰結・効果・文脈などについても同様であり、
むじなさんの「韓国語も知らないのに韓国のことを語るんじゃねぇ」とかも同様。
「〜べきだと思うんですけどねえ」では傍観しているのとあまり代わらない、と、そのように思います。
 

「超・左翼」投稿の削除・再アク禁について  投稿者:社会主義者  投稿日: 4月 8日(土)01時54分18秒    編集済
  (1) 拙板で、自分から先に他板や他板投稿者を批判・挑発しない事。
(2) 単なる教条羅列の煽り・連続短文投稿ではなく、それなりに議論のキャッチボール(受け答え)になるような、論理的な内容の投稿を心がける事(相手の論旨に賛同するにせよ反論するにせよ)。
(3) その他、拙板の掲示板投稿規程を遵守する事。
(4) 第二掲示板にハングル・朝鮮語学習とは全然無関係な話題を書き込まない事。

 メールで謝罪してきたからこそ、3月21日付告知投稿「先程、超・左翼さんの投稿規制を解除しました。」で上記の条件付で投稿規制を解除していたのに、いざ蓋を開けてみれば、また下記の如く「単なる他板・他板投稿者の批判・挑発」「教条羅列の煽り・連続短文投稿」のオンパレード。

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●社会主義者様に説明を求める
 投稿者:超・左翼  投稿日: 4月 8日(土)01時40分27秒

あなたが極右や偽装左翼は放し飼いにしているのに、私には追い出しを企てるのはなぜか。
説明を求める。

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●普天間移転計画を断固糾弾する
 投稿者:超・左翼  投稿日: 4月 8日(土)01時17分24秒

昨日、日帝政府と名護市長の島袋の間で普天間基地の代替滑走路をキャンプシュワブ沿岸に移転することで合意が成立した。
島袋は滑走路の設計変更を交渉の成果と言うが、米帝の基地が沖縄、日本国内に存在すること自体が労働者階級の利益に反するのだ。島袋は基地全廃を望む名護市民、沖縄県民を裏切り、基地移転を認めた。これは断固糾弾されなければならない。
われわれは沖縄、日本国内から米帝軍基地を放逐し、日米安保廃棄を勝ち取るまで闘いを続けなければならない。

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●鍋山とSINKENに告ぐ
 投稿者:超・左翼  投稿日: 4月 8日(土)00時58分1秒

君達は私を右翼のスパイ呼ばわりしたことがあったな。私は忘れていない。
私は鍋山とSINKENに謝罪を求める。

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●極右どもと議論を続ける社会主義者様とまこと様に苦言を呈する
 投稿者:超・左翼  投稿日: 4月 8日(土)00時53分11秒

社会主義者様とまこと様は相変わらずMETASら極右どもと親しげに議論を続けているようだが、極右は議論の相手にあらず、粉砕対象である。
社会主義者様よ、あなたは私をこの板から追放しようとしたが、どうして極右どもは粉砕せずに私の追い出しを企むのか!左翼ならば極右を徹底粉砕すべきではないか!
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 私には追い出しを企てるのはなぜか。説明を求める」だって?

 極右粉砕も辺野古・岩国支援も大いに賛成。ネットウヨクについては、拙板でも今まで批判・監視・規制の対象にしてきた。ただ拙板では、そんなウヨクとの非生産的な消耗バトルに絡み取られる事なく、掲示板所定のテーマに沿って真摯な議論が出来るような掲示板運営を、今まで心がけてきた。
 それに対してアンタの書き込みは一体なんだ? 「極右粉砕」と威勢だけは良いが、その為の具体的な論の提示もなければ、他者との議論のキャッチボールも、何もない。相手をひたすら教条的に「極右」呼ばわりし徒に掲示板内部で対立を煽りたてる事で、掲示板ともども、その「極右との消耗バトル」に引きずり込もうとしているだけではないか。アンタのやっている事は、正に「極左を装ったウヨクによる褒め殺し・撹乱」そのものだ。拙板をそのような場にする事は許容しない。この事は、今までもアンタには何度も繰り返し言ってきた筈だ。これ以上何度も同じ事ばかり書かせるな。

 エラー頻発で返信不能の、そっちからの一方通行のメールを私にいくらよこしても、読まずにそのまま「ゴミ箱」行きにするから、そのつもりで。もう来るな。
 

貴志川線に乗って花見に行って来ました。  投稿者:社会主義者  投稿日: 4月 8日(土)01時36分11秒    編集済
   やっと関西の桜も身頃となりましたので、4月4日付拙稿「貴志川線存続問題が提起するもの」で前振りしていたように、6日の休みを利用して、花見を兼ねて貴志川線に乗ってきました。

 貴志川線について改めて説明しておくと、和歌山市東郊の、JR和歌山駅と喜志駅の間の14.3kmを結ぶ南海電鉄の支線で、全線単線の電化路線。駅は全部で14駅あります。赤字により廃線にされようとしたのを市民の鉄道存続運動が食い止め、新たに「和歌山電鉄」の貴志川線として再出発しました。
 http://www.jtw.zaq.ne.jp/kishigawa/

 JR和歌山駅前には昼前に着いたので、駅前ビルか隣の近鉄百貨店でお花見の弁当を買うつもりでいましたが、百貨店は臨時休業で駅ビル売店の弁当は一種類しかなくしかもバカ高いので、地下の食堂街の和歌山ラーメンでお昼は済ませました。

 お昼を済ませた後はいよいよ(地理学でよく言う所の)「巡検」です。以下、携帯で撮って来た写真集に沿って話を進めていきます(下記URL参照)。
 http://afghan2004.hp.infoseek.co.jp/kisigawa_syasinsyu.htm

 貴志川線の和歌山駅はJRとの共用駅で、電車は9番線から出ています。また、この4月に和歌山電鉄に移管されてからは他の全ての駅が無人化され、切符の券売業務を行っている駅は此処だけになりました。電車の外観もゆくゆくは紅白ツートンカラーの「いちご電車」に更新される予定ですが、今はまだ南海と同じ電車で、違うのは、南海のマークに代わって和歌山電鉄のそれが入っている事と(写真集の(1)(2)参照)、ワンマンカーで運賃支払もバスと同じで、運賃表示機に示された運賃を下りる時に運賃箱に投入する形を取っている所です(無人駅から乗った場合は整理券を受け取ってそれも投入、同(3)(4)(5)参照)。

 運転士が支払の有無を確認しなければならないので、電車の乗降も二両編成の内の全て先頭車両の前扉から為されます。後方車両のドアは無人駅では一切開きません。運転士は駅に止まる度に運賃箱の上の窓を開けて乗客の支払を確認しなければいけません。

 運転だけでも神経使うのに、これでは気の休まる時がないし、何か突発的なトラブルが起こっても対応できないのではと、心配になってきます。実際、帰りの電車の中でも、途中の上下電車交換駅の伊太祁曽(いだきそ)で電車行き違い中に、直ぐ横の踏切に居た人から「警報機が鳴っているのに遮断機が下りてこない」というトラブル通報がありました。たまたま其処が上下行き違い駅で両方の運転士が居たので、互いの連係プレーでどうやら対応出来たから良かったものの。鉄道雑誌にはローカル線の詩情をやたらメルヘンチックに謳い上げているだけのものが多いですが、その裏では現場の労働者はコストダウンの為に限界まで酷使されているのが、これを見てもよく判りました。

 桜の名所の大池遊園(おいけゆうえん)は、貴志川線の絶好の撮影スポットとしても有名で、私の乗っていた電車も池の端で撮影している人が居ました。私も携帯で撮りましたが、あまり上手くは撮れませんでした(写真集の(6))。

 傍で畑仕事をしている人が居ましたので貴志川線の利用状況を聞いてみましたが、私の予想とは違って「乗客は少ない」との事。確かに私が乗った電車も、和歌山から乗る時は約40名の老若男女で二両とも座席はほぼ埋まるまでになっていましたが、途中の交通センター前(運転試験場がある)や岡崎前(近くには高校や女子短大がある)などで半数近くが下り、車庫・検車区・本社の在る伊太祁曽(いだきそ)を過ぎると、乗客はもうまばらになります(その為、ラッシュアワーのダイヤの半分は伊太祁曽止まりの折り返しとなる)。帰りはその反対で、和歌山に近づくに従って乗客は増えます(写真集の(10))。

 それに電車に乗っていて気が付いたのですが、始発の和歌山駅を除いて他の途中駅にはどれも、駅前にロータリーや商店街らしきものが全然形成されていません。住宅街の中にひっそりしているか、集落から離れた田畑の中にポツンとあるかの、どちらかなのです。近くには団地もある筈なのに。確かにラッシュアワーも存在して、この時間帯は15分ヘッドで区間運転もされていますが、それでも通勤・買物客の主流は既に自家用車に移行してしまっている感は否めません。

 大池遊園にしても、全体が私有地のマイナーな行楽地で(夕方6時には閉園、夜桜見物は禁止)、池の端にはそこそこ多くの人が花見を楽しんでいましたが、貴志川線で来た人はそんなに多くは居ないような感じでした。駅そのものも、かつては上下行き違いの交換駅で花見の季節には臨時に駅員も配置されていた様ですが、現在は交換設備や駅舎も撤去され、ご覧の有様。しかしそれでも帰りの電車に乗る時は何人か駅にいましたが、やはりお年寄りが多かったです。その中で、貴志川線の利用促進を訴える市民団体の幟が目を引きました(写真集の(7))。

 鉄道の利用需要そのものは今でも結構あり、これを廃線にしてそのままバス転換したら、多分京福電鉄の事例の様に、交通渋滞やバス停での積み残しが多発するでしょう。しかしその内実は、ラッシュ時に一定の需要がある以外は押しなべて学生や高齢者などの交通弱者が中心で、これでは鉄道施設の更新や新規投資までは到底賄い切れないだろうと推測されます。これは、商圏が、都心部の繁華街・百貨店から郊外の高速道路・主要地方道沿いのドライブスルー型量販店を中心としたものに変わって来て、周辺から都心部への人の移動が一頃ほどではなくなってきた事も、大いに関係あるでしょう。名鉄岐阜市内線・美濃町線が廃線になったのも、正にこの理由に因るものです。

 設備投資までは賄いきれないが、さりとて交通弱者を中心にして、無碍には切り捨てられない程度の一定の交通需要は存在する、こういう線区をどうするか。市場の論理・資本の論理だけではこういう線区も「切り捨てる」という選択肢しかありませんが、それでは地域は交通渋滞でニッチもサッチもいかなくなる。こういう分野を何とかしてこそ国や地方自治体であり、それを保障するのは住民の自治の力でしょう。勿論、鉄道会社の自助努力も必要です。例えば、パーク・アンド・ライドで日中閑散時間帯での通勤・通学自転車の車内持込まで認めて5割増収を図った熊本電鉄のように。しかし、それも自ずと限界・限度が在るのは、貴志川線のトラブル対応への不安を見てもわかります。

 貴志川線もこれだけ努力しているのだから、大手私鉄の南海電鉄なんて関空輸送でいくらでも儲けようと思えば儲ける事が出来るし、実際にも関空偏重のダイヤを組んでいるのだから、貴志川線だけでなく加太線もわかやま電鉄に譲渡する位で丁度良いと、私は思いますね。写真集(9)の様な「保線手抜き」などは論外。発つ鳥は跡を濁さず。架線柱は全てコンクリート柱か鉄柱に更新して枕木も全てPC化した上で、経営譲渡するならまだ判りますが。
 ついでにJRも和歌山線の南海和歌山市駅・JR和歌山駅間をわかやま電鉄に譲渡した上で、この両駅間には少なくとも10分間隔ぐらいのフリークエントサービスを実施すれば、シャトルバスの乗客も鉄道に戻ってくるし、和歌山を中心とした交通ネットワークが築かれ、わかやま電鉄も自前の資金を元に設備更新や新規の設備投資が出来るようになる。国や自治体も、地方分権や地域活性化を唱えるならこれぐらいの事はすべきでは。


※注:
 上記の「写真集」ですが、携帯で撮った写真をウェブ上にアップする間にビットマップファイルに変換されてしまうので、掲示板にはアップ出来ません(Jペグ画像しか無理)。PCへのデジカメのインストールが何度やっても上手くいかないので、写真は今まで全て携帯で撮ってメールでサーバーに転送しているのです。但しHP上にはアップ出来ますので、過去ログの方ではリンクではなく写真集の形でそのままアップしておく事にします。
 

貴志川線写真集 ('06.04.06撮影)

(1) 貴志川線電車
 JR和歌山駅の9番線が貴志川線専用ホーム。切符の券売機はJR改札の横にあるが、ホームには駅員の詰所もあり、駅員が常駐。電車の外観も南海電鉄の他の線区と何ら変わらない。
    (2) 和歌山電鉄のマーク
 3月31日までは此処に南海のマークが入っていた。






(3) 整理券発券機
 無人駅から乗車の際は、必ずこの発券機から整理券を受け取る。
(4) 運賃表示機
 それまでの乗車区間運賃が発駅ごとに電光表示されている。






(5) 運賃箱
 降車の際は必ずこの運賃箱に運賃を投入する。運転士は上の小窓を開閉して、その都度乗客の運賃投入を確認しなければならない。電車の乗降は全て先頭車両で行われ、2両目の扉は始発駅でしか開閉しない。
(6) 大池遊園の桜と貴志川線電車
 「大池遊園」と書いて「おいけゆうえん」と読む。これは駅の名前も同じ。貴志川線には他にも難読の駅名が少なくない。これは、和歌山方向から喜志行きの電車が丁度やって来た所。






(7) 大池遊園駅に掲げてあった幟
 かつてはこの駅も上下行き違いの交換駅で、ホームだけでなく駅舎もあった。花見の季節には臨時に駅員が配置されたりもしていたようだ。現在は右側の行き違い線も撤去され、島式ホームだった時の痕跡だけが僅かに残る。
(8) 大池遊園駅から乗車の整理券
 現在駅員が常駐しているのは和歌山駅のみ。無人駅から乗った場合はこれが必ず必要。降車の際はこの整理券と運賃を運賃箱に投入。この辺りはバスと全く変わらない。






(9) 保線状態
 コンクリート架線柱と木製枕木・除草されていない線路の対比が何とも言えない。
(10) 車内風景
 14:22和歌山駅着電車の先頭車両で、間もなく和歌山駅到着という時の撮影。平日の日中であるにも関わらず、かなりの乗客がある。但し、途中駅の伊太祁曽(いだきそ)付近を境にして、乗客はかなり減る。






(11) 和歌山駅に掲げてあったポスター
 2006年4月1日付で、南海電鉄から新生「和歌山電鉄」に、貴志川線の所管が変わった。
(12) 貴志川線和歌山駅の出場証
 和歌山駅のみ、降車の際は運賃は運賃箱ではなくホーム入口の専用改札機に投入する。すると入れ違いにこの出場証が出てくるので、JRの自動改札はこれを入れて通過する。








藤原正彦氏の議論について  投稿者:まこと  投稿日: 4月 7日(金)07時43分59秒    編集済
  本当は一昨日の投稿を踏まえて、「国家の品格」のテキストを引用しながら藤原氏の議論への疑問を書くつもりでしたが、長々書くのも何ですし、ちょっと志向を変えますね。

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藤原氏は「国家の品格」において、一貫してデカルト的な近代合理主義に疑問を呈しています。確かに藤原氏も懸念するように、現代社会は近代合理主義の「影」が随所に現出しています。我々は経済的・物質的には中世の人々よりも「豊か」な暮らしをしているかもしれませんが、その一方で毎日馬車馬のように働きづめないといけないし、精神的に「豊か」な生活を送っているとは言い難い。

また、政治経済の領域においても「合理主義」が必ずしも人類社会に好循環ばかりを齎したとは言えません。近代民主主義や主権在民理論が「大衆の喝采」下で生まれた独裁政権に正当性を付与するかの如き状況に陥った歴史もあります。ナチスドイツなどは正にその典型です。(近代)民主主義や国民主権という概念には藤原氏が指摘するような問題性"も"内在しているのは事実です。

そういう意味では、論理づくしの世界に生きる数学者だからこそ、近代合理主義・論理主義の限界性を深く認識しているという面もあるでしょうし、藤原氏の議論は「近代」が抱え込んでいる諸問題のある一面を突いてはいると思います。

しかしながら、近代批判に対置させる形で「武士道精神」を持ち出す点に、藤原氏の議論の「危うさ」があります。そもそも氏が賞賛するような種類の「武士道精神」自体が、近代民主主義などの概念と同様に、近代国民国家(としての大日本帝国)の形成過程で生まれ、近代国家の下での「国民」統合原理として利用されてきた経緯があります。

日露戦争を経た大日本帝国の社会が、その後「国民」として統合されつつあった民衆や知識人などの社会運動を経て、「大正デモクラシー」と呼ばれる「民主的」な側面も持つ政治体制へと移行した歴史をみれば分かるように、「国民」統合原理と近代民主主義はコインの裏表という面もあります。散々近代民主主義批判をする一方で、「武士道精神」を殊更に賞賛するというのは、近代批判としては「片手落ち」と言わざるを得ません。

加えて、藤原氏のような「片手落ち」の議論は、ネオナショナリズムに行き着く危険性があるということを指摘しておきたく思います。嘗て、昭和ファシズム体制の中で「武士道精神」が「天壤無窮」云々の皇国史観と結び付き、「デモクラシー」攻撃に利用された経緯もあります。伝統主義に依拠した近代批判は、ややもすると「伝統」を錦の御旗にした国家への阿吽追従を促す論理として機能しかねません。

こんな事を書くと、「いや藤原氏はナショナリズムを批判している」と反論されるかもしれませんが、表面的な字面だけで判断せず、歴史や先人の思想を踏まえつつ、氏のような思想性の行き着く先に「想像力」を働かせるべきだと私は考えます。

現に、藤原氏は「日本会議」のような国家主義的政治団体の集会に出席したり、機関誌に寄稿したりもしているようです。藤原氏の議論が単なる自然科学者の「仮説」といった類のレベルに留まらず、国家主義的政治運動の「実践」の場で利用されているという現実に注意を払う必要があると私は考えます。

http://www.nipponkaigi.org/

「近代」に批判の目を向けるのなら、近代イデオロギーとしての「民族」に対して徹底的に懐疑的・批判的精神を振り向け、「民族」を相対的に捉える視点を持つべきでは無いのかな−「国家の品格」を読みながら私はそう感じたことを付け加えて、筆を置きたいと思います。

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Koheiテレビでみたことあります  投稿者:修正資本主義者  投稿日: 4月 6日(木)13時01分27秒
  何でも青年海外協力隊かジャイカかそんな活動でアフリカに派遣された人
で片手間にちょっと歌を出したら馬鹿売れしたとか

HIVの件は本業からの要請でしょう
 

宣伝  投稿者:三浦小太郎  投稿日: 4月 6日(木)09時28分1秒
  RENK東京集会の宣伝です。興味のある方はどうぞ。

中朝国境最新報告
 現地映像を交えて最新情勢を映像ジャーナリストの高英起さんが報告します

この2月、中朝国境を訪問した映像ジャーナリストの高英起さんが、脱北者を巡る情勢、その彼方に垣間見える北朝鮮国内の変化、そして今後の北朝鮮民主化運動の方向性などについて、現地の映像を上映しながら最新報告を行います。
また、現在も日本への入国が続いている脱北帰国者、日本人妻の定着支援について、三浦から問題提起や支援体制の必要性を報告します。皆様方のご参加をお願いいたします。

日時 4月15日(土)午後6時開場 6時半開会
場所 かめりあプラザ第1研修室(5階)
電話 03−5626−2121 総武線亀戸駅下車3分
参加費 1000円

《地図》http://www.hataraku.metro.tokyo.jp/ibento/kyoiku/seminar/kame/map_cameriaplaza.html
 

紹介しようとして忘れていたもの  投稿者:metas  投稿日: 4月 6日(木)08時01分6秒
  アフリカで日本人の歌うラブソングが大ヒット! 人気歌手「Kohei」って誰?

http://pcweb.mycom.co.jp/news/2006/03/27/360.html

HIV/エイズ予防に対する意識の啓発のために企画した曲だそうですが、
感染予防が思うように進まない中、ちょっと明るくなれるニュースです。

ちなみに歌に使われているチェワ語(チチェワ語?)はここで勉強できるようです。
http://www.humnet.ucla.edu/humnet/aflang/chichewa/chichewa.html
 

もう少し書く  投稿者:metas  投稿日: 4月 6日(木)07時19分56秒    編集済
  ま、アレだけではなんなので。

藤原氏の本に付いて私が言いたいことの要点は、
あの論は「武士道」という言葉を使わずとも構成できるということ。
実際私が見たところ、「武士道における美徳」としてあがっている、
「敗者への共感」「劣者への同情」「弱者への愛情」
だけを出発点にして構成して、「伝統」という言葉を使うのを避ける書き方をすれば
もう少し社会科学っぽい捉え方の出来る論になる。
(他にも、自分が考える「国家の品格」や「論の出発点」を述べ、主張するテンプレートとしての使い方も出来る。)

それにこの論を素材に展開できる社会思想がどのようなものになるか考えたときに、
「武士道」という言葉を使っていることにより、
例えば社会思想としての「武士道」で適合するのかとか、
これが現代社会でどのような捉え方をされるであろうかということを論ずるのは、
そりゃ「やらなければいけないこと」になるだろう。
(こういうことに自力で気が付いて欲しかったが)
が、藤原氏がそういったことを無視して思想として語っているというのは事実誤認。
自然科学者として暗に心性単一性の仮定を前提としているだけなのである。
(人間の心的装置は時代や文化を越えて人間に固有であり、
同時にすべての人間に関して基本的に同じであるする前提)

それと、一番肝心なこととして、本の中で
「自由」や「平等」を批判している根拠というのは、
実は「現代的論理」なのであり、
ウィトゲンシュタイン、ゲーテル以降の「現代的論理」による検証を通らなかったということ。
私も依然論じたことがあると思うが、
これはカント以降の「近代的論理」からの移行における問題で、
自由・平等などが「近代的論理」ではうまく扱えたが、
「現代的論理」に乗せると論として成り立たないということ。
現代的論理に基づく限りは、人間性とか感情とかが論理に乗せられないので、
例えば「儲けることはいいことだ」「自分のことは自分でやれ」あたりを出発点に論理を展開すれば
新自由主義みたいなモノが導き出されるので、
現代的論理の権化たる藤原氏は「論理だけではダメだ」と言っているのである。
決して、自由・平等・人権あたりを旗印に人々が目指したモノを否定しているわけではなく、
むしろ目指したモノを実現するために旗印に出来る、
現代論理学の検証に耐える代わりの旗印になるものを探す試みの一環として、
「武士道」なる自分の思い込みを持ってきて展開した論なのである。

現在の学問は数学を筆頭に自然科学分野から哲学に至るまで既に「現代的論理」ベースに移行しているのだが、
社会科学分野等が未だに「近代的論理」ベースのまま留まっているのは、
現代的論理ベースでまともな社会を築くために使える
自由・平等などに代わる出発点が未発見である事が大きいのではと、私は推測している。
それを求めようというのがそもそもの私の「政治的立場」の根本であり、
たいていの場合、こういうくそ面倒な論を並べないと表せないのが「自分の意見」であったりする。
なにも隠す理由があったりするわけではないのだ。
 

「政治は米軍のためではなく、国民のためにある」(沖縄・宜野座、米軍再編強化反対村民大会)  投稿者:社会主義者  投稿日: 4月 6日(木)00時08分8秒    編集済
  ※このニュースも本土の大手商業マスコミは殆どまともに報じていない様なので、こちらに沖縄地方紙の記事を紹介しておきます。


・沿岸案反対に村民1000人/宜野座で大会(沖縄タイムス)

>在日米軍再編で日米が合意した米軍普天間飛行場の名護市キャンプ・シュワブ沿岸案に反対する宜野座村民総決起大会(主催・同実行委員会)が四日夕、村民ら約千人(主催者発表)が参加して村農村公園で開かれた。米軍再編の最終報告を控え、政府が地元の反対を振り切って強行決着させる姿勢もちらつかせる中、村民らは米軍機の飛行ルートが村上空を通る同移設案に強く抗議。同案の撤回を求め、在沖米軍基地の北部への集中強化に反対するスローガンを採択した。<

>実行委員長の城間盛春村議会議長は日本国憲法前文を引用し、「政治は米軍のためではなく、国民のためにある。私たちを犠牲にするな」と政府の強行姿勢を批判。<

>壇上で高校生を代表して決意表明したのは北部農林高校三年の當真嗣太君。「米軍機がいつ落ちてくるか分からない。不安や恐怖の中で、勉強や部活もできるはずがない。宜野座の未来を守るため声を上げよう」と訴えた。<

>「一丸となって静かな村を守ろう」。四日夕、宜野座村農村公園で行われた米軍普天間飛行場の名護市キャンプ・シュワブ沿岸部移設案に反対する宜野座村民総決起大会。村面積の半分を米軍基地が占め、多くの基地関連収入などで政府の基地政策に協力的とされた宜野座村。しかし、大会には親子連れや高齢者、小学生らまで幅広い年齢層約千人が結集し、沿岸部移設案に強く反対した。同飛行場の移設先に近い名護市東海岸の住民らも多数駆け付けた。<

>(浦添市の)港川学童クラブは三月三十日から四月二日まで、リヤカーに鍋やテント、生活雑貨を積んで旅行する「リヤカーマン体験」を行った。三月に港川小学校を卒業した児童七人が、名護市への基地移設反対を求める署名を集めながら、同市辺野古を目指し、三泊四日の日程でリヤカーを引いて歩いた。<
 http://www.okinawatimes.co.jp/day/200604051300_02.html
 

ああ、それね、  投稿者:metas  投稿日: 4月 5日(水)10時28分38秒    編集済
  >まこと さん

>あなたは社会科学系の議論になるとその方面の議論を等閑にするようですね。理系出身の伊賀さんからも前にその点をやんわりと窘められていたように記憶していますが。

それでも論理学寄りのことをやらずには居られないほど、
「気になる」のよ。語られている論の「具合」が。
なにしろ、政治という分野は私の様な者にもかなり、直接、影響しますから。

特に、今回は相当「論理屋として暴走」したかなとは思いますよ。
なにしろ、数学者の書いたものを取り上げていたし、
展開されている論・思想が何物なのか理解できるから。
少なくともアレを「思想」や「社会科学」やとしてだけ捉えて欲しくは無い。
「部分だけ捉えればそのようにも使える」だけの品なんで。

>その辺を等閑にして「論理的」な(???)レトリックや印象操作に走っても、そんな事が通用するほどこの界隈の掲示板の参加者は「甘く」と思いますよ。

印象操作に関しては、相手の居ないところでこっそりやることと心得ていますが。
まあ、何をそう捉えるかは「人による」とは思いますが。
実のところ、ここでは工作はあまりやらないように気をつけてます。

>自分の意見を正々堂々と開陳して議論した方が信頼されるし、現に三浦さんなどはそういう姿勢で参加されるからこそ、意見は違っても多くの人達が一目を置いているのです。

どうも、「開陳」でないと「自分の意見」を読んでもらえないようですね。
それは心しておきます。
藤原氏のように、「論の終わりに付加」が習慣になって居るもので。

ただね、「意見」以前に「見聞をぶつけるしかない」という状況が多いのも確かです。
オフラインでは意見を持たないまま、とりあえず「活動」したりすることが多いので、
政治とかのことをあまり知らない「ノンポリ」の側に立って活動家の間を動いたりすることよくありますから。
「意見は無いまま、何かをガードする」が身に付いちゃってます。

>あなたは少し前にもsinken板で「仕掛けをしておいたからsinkenさんは容易にレスできないはずだ」云々と書いていましたが、この界隈の掲示板に参加し続ける気があるなら、いい加減にそういう態度で意見交換に臨むことの「恥ずかしさ」を自覚すべきですね。

ああ、アレの仕掛けは「レスを先回りしているので、じっくり考えないとダメ」というだけです。
あのまま「意見交換」が続いていても、水掛け論にしかならなそうな状況でしたし、
いくらなんでも少しは「同じ手で来る通りすがり」相手の対応を見直して欲しかっただけですから。

他にも荒らしやらと思しき輩相手にまじめに対応してしまう人が居たら、
両方をけん制するためだけの、まともに相手をすることが不可能に出来ているレスを
「置く」こととかもありますが、
私がこういう場でやる「工作」は、殆どそんな代物です。
いくら「意見交換」とはいっても、延々と同じことが繰り返されたりするのはいやだというだけなんで。
そういうときの私は、別にサンドバッグでもかまわんのです。他のやり方を知りませんから。
 

metasさん  投稿者:まこと  投稿日: 4月 5日(水)09時28分41秒    編集済
  あなたが本当に学者ならば、専門家の議論の重要性を認識しているはずだけど、あなたはいざ得意分野外の議論になるとそれを等閑にするようですね。理系出身の伊賀さんからも前にその点をやんわりと窘められていたように記憶していますが。

この掲示板は政治や経済などの領域の話題について語り合う場であり、数学を語る場でも無ければ論理学を競い合う場ではありません。もちろん数学的な視点を加味して政治経済を語るのは「アリ」だし、現に政治経済方面の議論にも名を残している科学者もいますが、それにはまず政治経済や歴史方面の議論をしっかりと踏まえた上の話です。

その辺を等閑にして「論理的」な(???)レトリックや印象操作に走っても、そんな事が通用するほどこの界隈の掲示板の参加者は「甘く無い」と思いますよ。実際、この掲示板や今はなきsinken板の古参の参加者で、あなたの投稿を真面目な討論の対象として扱う人達、徐々に減っているでしょう?

妙なレトリックや印象操作に走るよりも、自分の意見を正々堂々と開陳して議論した方が信頼されるし、現に三浦さんなどはそういう姿勢で参加されるからこそ、意見は違っても多くの人達が一目を置いているのです。

あなたは少し前にもsinken板で「仕掛けをしておいたからsinkenさんは容易にレスできないはずだ」云々と書いていましたが、この界隈の掲示板に参加し続ける気があるなら、いい加減にそういう態度で意見交換に臨むことの「恥ずかしさ」を自覚すべきですね。

では。
 

ま、レスしておくか・・・  投稿者:metas  投稿日: 4月 5日(水)09時17分36秒    編集済
  >まこと さん
>metasさんは「サヨ〜ク」に一矢報いたいと思っているのだろうけど、その場その場をレトリックや揚げ足取りで切り抜けようとするから、metasさんの政治や歴史に関する議論は、よく読んでみると投稿のたびに主張や立場がちぐはぐだったりすることが多いような気がします。

まあ、政治的に明確に、常に非中立な貴方から見たらそう見えるのかも知らんが、
私の投稿は論理的指摘がかなりの部分を占めていて、
(まあ、それが「揚げ足取り」と言えないこともないが。)
それは何か明確な主張や立場があってやっているわけではない。
だからそういうときには相手の論が否定されようが修正されてもっと強力な理論武装になろうが、
どちらでも「目的達成」なの。「ウヨ〜ク」相手にはオフラインでやってるし。

>政治思想における「伝統主義」とは、前近代思想には時間を越えた根本的・普遍的精神があるとみなし、近代思想と対置させることでその優位性を主張する考え方のことを言いますし。

そんな政治思想のことは知ったこっちゃないし、藤原氏の論でもそんなことを云々している形跡は無い。

>思想にしてもそうです。ある人物なり世代が「再構成」し直した思想など、それが長い歴史的試練を通過しない限り、「伝統思想」とは言えません。

私は「思想」に限定して「伝統」を語った覚えはないし、
藤原氏が「伝統」の中身を語った論説も見た覚えは無い。
ただ、藤原氏の論が「どう機能するか」を云々していたので、
心理学の立場で「どう機能させられるか」語ったまで。

心理学の捉える「伝統」というものは、思想などというせまっ苦しい偏屈極まりない限定などせず、
それこそ体の仕草から考える筋道に至るまで受け継がれたものをさす。
そこからある人物なり世代が「拾い上げて」論として再構成したものも、
「伝統についての思想」と呼べるんじゃないかということを言っているの。
「伝統思想」などという胡散臭い概念のことはハナからどうでもいい。

藤原氏の論の中でも、「武士道」というモノは
「日本人の根底にある形を解説するための」表現として捉えているのであり、
「葉隠」もその『表現』の一つとして、名前が紹介されている。
で、新渡戸による表現が「今のところ『伝統』が一番よく『表現されている』と思う」という話である。
だから「再構成」は「表現」の話であって、思想としてのことはそもそも明確に語られてすらいない。
貴方はなんとしても「思想」扱いしなければ許せないようだが。

そもそもあの本は「数学者が、自然科学のやり方で、社会『や』思想を語った」もので、
(「社会思想」とくっつけたモノではない)
社会科学のやり方など踏まえてもいないから、「社会科学の本として」捉えようとすると
「出来の悪いもの」に見えるのが当然。パソコンを暖房器具として評価するようなもの。

>まあ、metasさんの投稿は、ある意味「伝統」を振りかざした近代批判の「胡散臭さ」を指摘してくれている訳ですけどね(笑)。

うん、私や藤原氏の論をそのように歪んだ形でしか捉えられなかった
貴方の論や思想なるものの胡散臭さがそのまま、鏡で移すように見えているのですよ(笑)。
 

新渡戸「武士道」および近代日本における「武士道精神」の歴史的位置付け(1)  投稿者:まこと  投稿日: 4月 5日(水)09時09分54秒    編集済
  この辺りで、新渡戸「武士道」および近代日本における「武士道精神」の歴史的位置付けを確認してみます。以下はある日本近代史の研究者の著書からの引用です。私があれこれ書くよりも明快なので。

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「さて、日露戦争をきっかけとして流行しはじめたのは、武士道こそが日本人の国民性を示すものだという見方でした。この見方が欧米で流行したのは、一八九九年に英文で刊行された新渡戸稲造『武士道』(Bushido、the Soul of Japan)』の影響であることは否定できません。しかし、日本で翻訳が出たのは日露戦争後の一九〇八年、桜井?村によるきわめて読みにくいものでしたから、それが直接的に日本での流行をうみだしたわけではないようです。日本では新渡戸の『武士道』がアメリカで出版された一八九九年に大日本弘道会から『日本武士道』が、一九〇二年に山岡鉄舟述・勝海舟筆記の『武士道』が、一九〇五年に重野安繹の『武士道叢論』などが公刊されてはいました。しかし当時の新聞『日本』によれば、ほとんど死語となっていた武士道が日露戦争を機に、にわかに流行しはじめたというのが実情のようです。

新渡戸の『武士道』は研究書というよりも、日清戦争に勝利した日本の精神基盤を西洋の騎士道に比定しながら、武士道精神が大和魂であり、民族精神であることを欧米人に理解させようとした日本国民性論でした。つまり、武士道そのものの究明というより、日本人の倫理性や精神性の特徴を論じたにすぎないものでしたが、それが新渡戸の意図を離れて欧米からの日本に向けられたまなざしに一つの方向性を与え、その後の日本人論のパターンを形作ることになりました。

また、日露戦争において、黄禍論を排除し、日本人の精神性に注目させる広報戦争において、日本軍が武士道論を意図的に利用したことは、一九〇四年八月、満洲の戦場にいた第一軍付きの外国武官に東京から新渡戸の『武士道』とビールが届けられたことからもわかります。

(思いっきり中略)

しかしながら、そのような欧米人むけに騎士道やキリスト教精神との相似性をもって説かれた武士道は、明治になって忠孝や忠君愛国を骨子として作り出されたものであり、本来の武士道とは全く異質のものではなかったでしょうか。そもそも、戦闘が日常的であった時代に生き残ることが課題であった戦闘者の倫理としての武士道と、実際に戦闘をしなくなった元和偃武以降に死が非日常のものとして観念化していくなかで倫理として作られたために、主君に対する忠義の証を切腹に求めざるを得なかった武士道とは似て非なるものでした。(以下略)」

(以上、【山室信一著「日露戦争の世紀 連鎖視点から見る日本と世界」(岩波新書)】190〜194頁より引用)

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さて、上記に引用した山室氏の著述には「新渡戸の意図」という字句が出てきますが、別の研究者は「武士道」を著した「新渡戸の意図」について、次のように説明しています。

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「『武士道』が大好評を博したのはアメリカで発表されたからであり、日本でも好評だったのは、欧米で好評だったからであろう。最初から日本で発表されていたとしたら、西洋嫌いの「武士道」論者、「武士道」は世界に二つとない日本固有の伝統だと主張していた者たちに、猛反撃をくらっていたかもしれない。(略)

新渡戸自身は、後に「今後は武士道よりも平民道(デモクラシー)を主張すること時を得たものと思ふ」と発言する(「平民道」一九一九年、全集四)。『武士道』はアメリカ人向けの書物であり、新渡戸自身の日本人向けの発言としては、むしろ「平民道」を挙げるべきしれないが、そのように意識されることは少ない。一度書かれた書物は一人歩きすののである。まして、欧米でも大好評を得て、国内でも時流に乗った『武士道』は、新渡戸自身が何を言おうと揺らぐことはなかった。」

(以上、【佐伯真一著「戦場の精神史 武士道という幻影」(NHKブックス)】263〜264頁より引用)

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これらの専門家の論述を踏まえた上で、藤原氏の立場性がなぜ「片手落ち」なのかについて私見を書くつもりでしたが、そろそろ時間切れ(仕事)なので、続きは明日以降に書く予定です。
 

「伝統」  投稿者:まこと  投稿日: 4月 5日(水)08時08分37秒    編集済
  metasさんは「サヨ〜ク」に一矢報いたいと思っているのだろうけど、その場その場をレトリックや揚げ足取り、印象操作で切り抜けようとするから、metasさんの政治や歴史に関する議論は、よく読んでみると投稿のたびに主張や立場がちぐはぐだったりすることが多いような気がします。

「伝統」とは、一般的にある社会や民族などが世代を越えて歴史的に形成・蓄積した慣習や文化を言います。例えば、俗に歌舞伎は「日本の伝統文化」と言われますが、その歌舞伎とて型などは時代の流れの中で漸次的に変容してはいますね。ただ、その変容自体も歴史の試練の中で変容以前の姿と融合しながら形成され、またそうした歴史を蓄積しているからこそ歌舞伎は「伝統文化」だと認識される訳です。

思想にしてもそうです。ある人物なり世代が「再構成」し直した思想など、それが歴史的試練を経ない限り、「伝統思想」とは言えません。というか、政治思想における「伝統主義」とは、前近代思想を時間を越えた根本的・普遍的精神が存在するものとみなし、近代思想と対置させることでその優位性を主張する考え方のことを言いますし。

従って、「伝統」を「近代イデオロギーとして」「再構成・再解釈」(metasさん)したものは、それは最早「伝統思想」ではありません。それは飽くまで伝統思想を「再構成・再解釈」し直した近代思想に過ぎません。

まあ、metasさんの投稿は、ある意味「伝統」を錦の御旗にした近代批判の「胡散臭さ」を指摘してくれている訳ですけどね(笑)。

++++++++++++++++++++++++++++++++++

(余談)

ちなみに、歴史や政治方面の議論や、社会分析に名を残している心理学者たちは、政治学や歴史学にも深い知識を持ち、それらを踏まえた上で心理学的アプローチからの分析を行っていますね。
 

藤原氏の本について補足  投稿者:metas  投稿日: 4月 5日(水)08時07分4秒    編集済
  手元の本では、P.121、第5章の「さまざまな武士道」という項目で、
まことさんのいう「武士道」についての藤原氏の態度が、きっちり現れている。
必要なところを引用しながら解説すると、

-
武士道に明確な定義はありません。新渡戸稲造は『武士道』を書いていますが、それは外国人に日本人の根底にある形を解説するための、新渡戸の解釈した武士道です。
-
この一文だけで、まことさんが述べる
『 Re:「右からの新自由主義批判」をどう評価するか?   投稿者: まこと    投稿日: 4月 1日(土)08時03分43秒』
の論が、「基本的な事実認識自体に誤解がある」代物であることが分かる。

「明確な定義が無い」と断りを入れているということは、論の中では
そのような概念の果たした「生まれ、展開、役割」等とは全く関係が無く、
ただそのように呼べるモノが「どのように働いたか・どのような働きを期待できるか」
だけを問題にしようとしていて、主題が「武士道」そのものには実は無く、
「武士道」という名前を使っているだけだということ。実際に上がっている要素が
「敗者への共感」「劣者への同情」「弱者への愛情」で、
むしろそのような要素を「武士道」を元に抜き出せる、位の言い方をしている。
つまり藤原氏の言う「武士道」なるものは、極端な話
「使えりゃ変形した代物でもかまわない」である。
第一、「伝統」の定義(数学者が「伝統」を論ずるための最重要事項)も与えてないし。

それに、
「多くは新渡戸の解釈に拠っています」
「大事なのは武士道の定義を明確にすることではなく」
「近代武士道は新渡戸の書にもっともよく表現されていると思うのです」
ともある。つまり、
新渡戸の著述をちゃんと読んだ上で、論を抽出するのに使いやすいから高く評価している。
完全に自然科学者のやり方で新渡戸の武士道を扱っているのである。

それと、
>藤原氏が批判してやまない「(近代)民主主義」や「国民主権」「人権」なるものと、氏が称揚する「武士道」なるものは、実は五十歩百歩なんだと思いますね。
(まこと さん)

実はある意味、五十歩百歩「だからこそ」置き換えを主張している。
なにしろ藤原氏による批判の中身は、「論として期待された動きをしない」
(パソコン用語で言う、「でかいバグがある」「使うと暴走する」)
以外に無いからである。
藤原氏の論は「近代批判」では無く、「近代的合理精神批判」である。

(なんか書いてる間にもレスが付いてるけど、そっちは後で読も。)
 

ズバリ!次の総理大臣は誰がいい?  投稿者:うみ  投稿日: 4月 4日(火)23時23分13秒
  投票お願いします。

http://www.to-hyo.net/enquete/vote.cgi/id/1047/

 

和光大学市民講座「平和学―被爆・敗戦60年を超えて」申込受付中(4月17日必着)  投稿者:伊達 純  投稿日: 4月 4日(火)21時35分23秒
   マルチ・ポスト、失礼します。

 平和学会で知り合いになった竹峰誠一郎さんが、和光大学の市民講座「平和学−被爆・敗戦60年を超えて」を開講する権利を得たそうです。4月17日までに8人の受講生を確保すれば、開講できるということですので、東京・神奈川など首都圏にお住まいの方は、是非、御参加下さい。

(以下転載)
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和光大学市民講座「平和学―被爆・敗戦60年を超えて」申込受付中(4月17日必着)

和光大学オープンカレッジ「ぱいでいあ」(東京都町田市)講座「平和学―被爆・敗戦60年を超えて」申込受付中(4月17日必着)

 2006年5月から第2・第4土曜の午後、和光大学のオープンカレッジ「ぱいでいあ」にて「平和学――被爆・敗戦60年を超えて」(担当―竹峰誠一郎)を開講します
http://www.wako.ac.jp/kaihou/lineup_culture_06_05.html#5_11)。

ただいま受講申込受付中。4月17日必着です。8名以上申込があれば開講です。どなたでもご参加いただけます。

●講座名 <平和学――被爆・敗戦60年を超えて>

●講座内容
 被爆60年を迎え広島市長は、いまこそ被爆者の志を受継ごうと、国内外によびかけました。この呼びかけに応え本講義は開講します。前半は、「いま、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニを問う」と題し、被爆者と直に触れあうことからはじめ、加害の側面や地球規模に広がるヒバクにも目を向けます。後半は、「揺れる日本の平和主義の将来」と題し、国際的な視野をもって安全保障・国際貢献・NGO・憲法等をとりあげます。ディスカッションをとりいれ、ゲスト招聘やフィールドワークをおこないながら、講座を展開します。

●曜時 第2・第4土曜(5月〜7月、10月〜12月)14:40-17:50(90分×2)

●場所 ぱいでいあホール(小田急線「鶴川」駅前すぐ・東京都町田市)
 ※小田急線・鶴川駅は、新宿や渋谷、横浜の駅からの所要時間が40分ほどです。

●開講日 1日2コマ・10日間(=全20回)
5/13,5/27,6/3, 6/24, 7/8 10/14, 10/28, 11/11, 11/25, 12/9※例外的に6/3(第1土曜)は開講し、6/10(第2土曜)は休講します。

●受講料(年間)  一般3万円  高校生以下・和光大学生6千円
※受講申込後の振込になります。
※特典―和光大学図書館が利用できるようになります。
※和光大学「ぱいでいあ」への入会金は必要ありません。

●教科書
『隠されたヒバクシャ』(グローバルヒバクシャ研究会=編、凱風社、2005年、3150円)
※講義初日に指示します。※他に適宜プリント類を配布します。

●講師プロフィール
 竹峰誠一郎(たけみね・せいいちろう)。1977年生、和光大卒。現早稲田大学大学院博士後期課程在学中。専攻は国際関係学で、平和研究を中心に進める。共著に『隠されたヒバクシャ』(凱風社、2005年)、『ヒバクの島マーシャルの証言』(かもがわ出版、2004年)など。現在、第五福竜丸平和協会の専門委員や日本平和学会の分科会「グローバルヒバクシャ」共同代表などを務める。

●講義の進行予定
(春期)いま、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニを問う
〈1〉講義の説明、相互の自己紹介 ヒロシマ・ナガサキ・ビキニとは?
〈2〉被爆者の証言&交流―原爆を背負い生きた60年―〈3〉被爆者は何を訴えてきたのか―その普遍的メッセージをさぐる
〈4〉地球規模に広がるヒバク―ビキニ水爆被災に学ぶ
〈5〉都立「第五福竜丸展示館」へのフィールドワーク―体験継承と平和運動の足跡

(秋期)揺れる日本の平和主義の将来
〈6〉映画『アトミック・カフェ』鑑賞―情報操作と国民保護法をかんがえる―
〈7〉「安全保障」の再考―「安全保障」=「国防」?
〈8〉世界の平和を求めて@―国際貢献・援助
〈9〉世界の平和を求めてA―NGOの可能性
〈10〉憲法9条の平和構想―その理念と可能性
 ※受講生の問題意識や諸事情により、日程や中身が変更になる場合がございます。
 ※春・秋期とも何度かゲストを招聘予定です。

●連絡先(質問・申込)
 竹峰誠一郎(takeminese@hotmail.com)
 和光大学・企画広報課(電話044-988-1433 , kikaku@wako.ac.jp)
 ※竹峰まで、「氏名(フリガナ)・生年月日・性別・住所・電話番号・緊急連絡先(休講など連絡用)」をお知らせいただければ、こちらで申込の代行を行います。
 

>まこと さん  投稿者:metas  投稿日: 4月 4日(火)14時59分46秒    編集済
  >読みましたよ、ちゃんとお金を払って。

にしては、(私としては読んで欲しい)前半部分に対するコメントが皆無なんだけど。
まあ私の主張と一番重なるのは2章だったりはするが。

>基本的な事実認識自体に誤解があるなら、「仮説」にすらならないでしょうね

なる。素人には奇異に感じられるかもしれないが。
計算が間違っているのに、前提と結論は成り立っている論文も時々あるし、
(もちろん数学ではなく、医学や工学など応用系に多いが)
物理の方でも、定説とされる中にもよく見かける。
(よく言われるのが、相対性理論と量子論の間に矛盾があること)
社会科学になるともっとひどい。

>藤原氏は現実の政治を論じているために「武士道精神」なる概念を援用しているのだから、氏が言うところの「武士道精神」が歴史的にどう生まれ、どう展開され、どういう役割を果たしてきたかを踏まえた上で論ずるべき。

それは一般的事実ではなく、貴方(がた?)の「仮説」の域を出ない。
確かに現在の社会科学系の領域では大事と「されている」が、
自然科学系から見れば、その社会科学系に認められている仮説自体が怪しいの。

心理学の方でも言われている。
人を動かすのに必要な論は、「自分(達)が自分のこととして納得できる」こと。
社会科学のその定説に従って、論の歴史的展開との関連を調べてみたが、
必ずしも関連が無かったそうだ。
まあそれでもカウンセリングに使えれば、使えるという事実が大事なのであって
歴史的展開云々はせいぜい補足程度に過ぎない。

>ただ、ウヨサヨ以前の問題として、「国家の品格」という本は現代政治や社会を論ずる本としては、出来の良い本とは言えないというのが私見です。

私は科学者・心理学者流に「売れているなら『世に問う論』として出来がいい」と判断します。
まあ社会科学の論としては「出来の良い本とは言えない」というのは事実だと思うが、
出来のよい論を立てていても売れてない本とかも山ほどあるし、
藤原氏の意図に沿った売れ方ではないかもしれないというのも承知の上で。

>藤原氏の議論で奇異なのは、近代批判を展開しつつも、氏が言うところの「武士道精神」が「近代国家」としての日本が形成される過程の中で生成されたという認識が極めて希薄であることですね。だから、私からすれば凄く片手落ちにしか思えないんですね

「貴方がたからすれば」そうであろうが、
例えば私から見ると、貴方が藤原氏の本に関して、
武士道云々とかのことばかり言って「論理に関する論」に全く触れていないのは
凄く片手落ちにしか思えないし、奇異に感じる。

>metasさん、数学的な分析や「論理」が何処でも通用する訳ではありませんよ。
>老婆心までに。

これは本の中で力説されているし、私もそう考えている。
このようなことを言ってくるからこそ、「貴方が読まずに言っている」と判断したの。

>(ちなみに私は「政治屋」ではありません。ただの「営業屋」です〜(笑)。)

政治屋と呼ぶに十分。
数学専攻の私もよそでは十分「宗教屋」だし(笑)。
 

貴志川線存続問題が提起するもの  投稿者:社会主義者  投稿日: 4月 4日(火)11時13分23秒    編集済
   名鉄廃線問題・JR福知山線事故・同じく羽越線事故に引き続いて、鉄道マニアの端くれとして久しぶりに鉄道関連の話題を一つ。

 大阪・和歌山間を主要エリアとする関西大手私鉄の南海電鉄が、和歌山県内に保持する線区の一つが貴志川線です。和歌山市近郊を走る線区で、元々は地元の鉄道会社が経営していたのを南海が受け継いだ路線ですが、'03年10月に赤字を理由に廃止表明が為されました。それを機に鉄道存続を求める草の根の住民運動が起こり、地元の貴志川町(現・紀ノ川市)・和歌山市・県や南海電鉄も巻き込んでの、鉄道存続に向けての議論が続いてきました。その中で、住民による事業者公募で岡山電気軌道(岡電)が貴志川線の経営を継承する事になり、岡電傘下の「わかやま電鉄貴志川線」(愛称:いちご電車)として新たに再スタートを切る事になりました。

【参考資料1】

・NHK総合「難問解決!ご近所の底力」'04年9月2日放送「生活の足 鉄道を守れ」
 貴志川線存続問題を分かりやすく取り上げたTV番組。
 http://www.nhk.or.jp/gokinjo/backnumber/040902.html
・貴志川線の未来をつくる会
 存続運動の中心になった住民の会のHP
 http://kishigawa-sen.com/
・わかやま電鉄貴志川線 公式HP
 http://www.okayama-kido.co.jp/wakayama/
・貴志川線を探検しよう
 かなり詳しい内容の貴志川線紹介サイト。全駅の写真もアップされている。
 http://www.jtw.zaq.ne.jp/kishigawa/
・和歌山電鉄貴志川線:地方鉄道再生へ、出発進行 一期一会で走る電車に/和歌山(毎日新聞)
 http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/wakayama/archive/news/2006/04/01/20060401ddlk30040462000c.html

 この貴志川線存続問題については、他にも「応援勝手連」「南海貴志川線ウェブサイト」などの住民や運転士の手による個人ページや経営問題を分析した和歌山大学や地元経済研究所によるサイト・ブログが多数アップされていますので、ご興味のある方は検索してみて下さい。私も桜が満開になれば一度現地を見てくるつもりです(沿線の大池遊園は桜の名所です、ただ今年は何故か関西だけ桜の開花が遅れています・泣)。

 私がこの話題をアップしたのは、鉄道マニアという事の他に、リストラ問題や新自由主義批判を巡るこの間の議論を考える上でも一つの切り口になるのではないかと考えたからです。

(1) 鉄道廃線問題にも小泉政治による規制緩和の背景がある。

 この貴志川線問題の他にも、関西では、京阪大津線や近鉄伊賀線・北勢線の廃線問題が浮上しています(このうち北勢線については三岐鉄道が経営を引継ぐ形で存続)。全国的に見ても、北海道ちほく高原鉄道銀河線、くりはら田園鉄道(宮城県)、日立電鉄・鹿島鉄道(茨城県)、のと鉄道(石川県、一部区間は存続)など、既に廃線が決まったり予定されている線区が多数存在します。
 このような鉄道廃線ラッシュの裏には鉄道事業法の改悪(2000年3月施行)があります。それまでは地域住民の足の確保・交通権保障の観点から鉄道廃線については地元合意が必要であったものが、この改悪によって地元合意がなくても届出だけで1年後には路線廃止が出来るようになりました。
 http://www.ne.jp/asahi/wc6y-nmk/komatetsu/jigyoho/a1-2.htm

(2) 市場・資本の論理による安易な地方線区切捨て

 これを先の貴志川線の例で見てみます。当該線区は確かに利用客数の減少が続き、毎年赤字を計上しています。しかし、県庁所在地のターミナル駅を始発駅とし、沿線には高校や自動車運転試験場、遊園地や桜・渓流観光の名所などを控え、今でも1日三千人からの輸送密度を誇り、ラッシュ時には多い時には15分間隔、デイタイムでも30分間隔で終日二両編成の電車が運行されているのです。全国的に見ても、青森県の弘南鉄道の様に、貴志川線と同規模で同じ様な沿線人口を持つ線区で黒字経営を維持している線区も存在します。
 ところが南海その他のHPによれば、ATS・CTC設置や冷房車導入などの設備近代化が始まったのは平成に入ってからとの事。私も南海沿線に住んでいるので感覚的に判りますが、南海は完全に関空偏重のダイヤを組んでいます。関空アクセスのダイヤを増発する一方で、デイタイムの難波・和歌山市間の直通急行まで廃止してしまいました。下記三段目リンク先に見られるような草ぼうぼう・保線手抜きの貴志川線の惨状にそれがよく現われています。長期にわたる利用客の大幅減少は、(モータリゼーションの進展や、歴代自民党政権の経済失政による市街地空洞化、車優先の都市開発の影響も勿論ありますが)今までの長年に渡る「手抜き」のツケであり、平成に入ってやっと近代化やダイヤ増発に踏み切った所で、そんな一般的な対応策だけではどうにもならない所まで来てしまっていたというのが、実際の所だと思います。
 http://www.wsk.or.jp/work/d/higashino/02.html
 http://www.eco.wakayama-u.ac.jp/~ktjapanh/LRT050421.pdf#search='雋エ蠢怜キ晉キ・
 http://blog.kansai.com/SIVA/60

(3) 鉄道リストラに抗する市民運動の発展、その「光と影」。

 このような「鉄道版・規制緩和」「鉄道リストラ」に抗して、地域住民の側から存続運動が巻き起こり、それも単なる廃止反対請願・陳情運動の枠を超えて、地元自治体も動かして積極的に経営参画に至るような試みが、全国各地で始まっています。貴志川線存続運動もそうですし、先に挙げた北勢線の事例も地元の存続運動がベースになっています。茨城県鹿島鉄道の例では、地元の中学・高校生徒会が「かしてつ応援団」を組織して存続運動の一角を担っています。福井県のえちぜん鉄道の例は、前身の京福電鉄による長年の安全・保安軽視による永平寺線電車の暴走事故(ブレーキ故障による正面衝突事故で運転士が死亡している)など、半年間に二度も大事故を起こして国交省から営業休止命令を受け一旦廃線になったが、交通渋滞で通勤・通学にも支障をきたした住民による鉄道復活を求める声を受けての第三セクターによる再生事例です。
 この様な住民による存続運動の発展は、日本における市民運動成長の一つの証左であり、新たな運動発展の可能性を秘めたものであると言えますが、穿った見方をすれば、小泉政治推進の側がそういう善意の市民運動まで取り込んで、地域住民の交通権を確立する方向ではなく「存続を求めるなら経営協力を」という形での自助努力・自己責任に話を摩り替え、「規制緩和」「鉄道リストラ」の既定路線は維持していく、逆にそういう新自由主義の論理に絡み取られていく危険性をも、同時に孕んでいるのではないかという危惧を持っています。この問題については引き続き検討を重ねていく必要があると思っています。

【参考資料2】

・鉄道利用者会議HP
 国民の交通権確保という観点から、鉄道存廃問題、利用者の安全、
 鉄道労働者の人権について考えているサイト。
 http://boat.zero.ad.jp/~zbj34761/riyosha/
・北勢線を活かそう!
 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Apricot/8361/
・鹿島鉄道を守る会HP
 http://www.paw.hi-ho.ne.jp/kasitetu/
・錆び付く鉄路
 京福電鉄営業休止からえちぜん鉄道創立に至るまでの経過説明。
 http://saizou.3.pro.tok2.com/teturo/sabirail.htm

その他の鉄道存続・再生の試みからも幾つか。
・ふるさと銀河線に特急を走らせる会
 http://homepage3.nifty.com/ginga-express/
・富山ライトレール 公式HP
 JR富山港線存続運動から生まれた路面電車化による再生の試み。
 http://www.t-lr.co.jp/
・万葉線ネット
 加越能鉄道高岡市内線が存続運動により第三セクターとして再出発。
 http://www.manyosen.net/


(蛇足)

 藤原正彦氏の「国家の品格」流に、「昔の鉄道には古きよき日本の風情やモラルがあった」というアプローチで鉄道廃線問題に迫るのも一つの接近方法だと思います。自分自身も鉄道マニアの端くれですから(私の場合は主にローカル私鉄情報収集)、その気持ちはよ〜く判ります。例えば、今は無き蒲原鉄道のモハ31・ウェスチングチング型電気機関車ED1や、上田電鉄の今は無き丸窓電車の写真なんかを見ると、私も暫しそういう「国家の品格」的感慨に耽ったりしちゃいます。

 実際にも、地域での鉄道存続運動を支えてきたのは、そういう「古き良き日本を守れ」という素朴な住民感情です。それはそれで大いに結構な事なのですが、私自身はただノスタルジーにひたるだけではなく、もっとその先の、地域住民の交通権、利用者の安全、鉄道労働者の生活・権利保障といった面まで視野に入れた議論をしていかなければ、と思っています。そうでないと、ただノスタルジーにひたっているだけでは、京福電鉄永平寺線事故で亡くなった(殺された)運転士の無念や、貴志川線との比較で低コスト・黒字経営と評価された弘南鉄道職員の相対的低賃金(確か月収20数万円レベルだった筈)などの、表面的現象の裏に潜む経済・階級構造の問題は絶対に見えてこないし、最後には「地域住民の交通権」確立の視点抜きの単なる「官製の経営協力運動」に丸め込まれてしまうだけだと思うからです。
 

metasさん  投稿者:まこと  投稿日: 4月 4日(火)08時51分53秒    編集済
  >あるいは、本そのものを読まずにものを言っている。

読みましたよ、ちゃんとお金を払って。

>そもそも藤原氏の論は、論議という以前に「仮説」なの。

基本的な事実認識自体に誤解があるなら、「仮説」にすらならないでしょうね。

>もちろん政治屋である貴方のように、政治史や思想史の中で捉えているわけではないが、
>「使える」と思ったからこそ論の出発点として使っているの。

藤原氏は現実の政治を論じているために「武士道精神」なる概念を援用しているのだから、氏が言うところの「武士道精神」が歴史的にどう生まれ、どう展開され、どういう役割を果たしてきたかを踏まえた上で論ずるべき。

というか、「武士道」云々に限らず、政治・経済や法律など、所謂社会科学系の領域で古典的な思想や論述を援用する際には、「歴史」という視点がものすごく大事です。

藤原氏の議論で奇異なのは、近代批判を展開しつつも、氏が言うところの「武士道精神」が「近代国家」としての日本が形成される過程の中で生成されたという認識が極めて希薄であることですね。だから、私からすれば凄く片手落ちにしか思えないんですね。

なお、「武士道精神影」云々に関する論述としては、「平家物語」の研究をライフワークとしている著者による以下の本をおすすめします。まあ、この本は日本の古典文学や歴史書の 解釈論が主ですが、新渡戸「武士道」など、近代日本における「武士道精神」についても言及されていますので。

●佐伯真一・著「戦場の精神史 武士道という幻影」(NHK出版)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140019980/250-7771143-7268228

ちなみに、私は「数学者」としての藤原氏の業績について云々する気はありません。
数学のことなどよく知らないので、できるはずはありませんし。
ただ、ウヨサヨ以前の問題として、「国家の品格」という本は現代政治や社会を論ずる本としては、出来の良い本とは言えないというのが私見です。

>んなことはない。それはただの分析力不足。

別に私は数学者では無いので、数学が専門のmetasさんとは読み方が違うでしょうね。
ただ、「国家の品格」は数学の本ではありませんので、私がmetasさん達の「分析」手法に合わせる必要は無いでしょうし、私の理解の仕方は決して「誤り」では無いと考えています。

metasさん、数学的な分析や「論理」が何処でも通用する訳ではありませんよ。
老婆心までに。

(ちなみに私は「政治屋」ではありません。ただの「営業屋」です〜(笑)。)
 

さすがに同業者?として  投稿者:metas  投稿日: 4月 4日(火)08時25分22秒
  藤原氏のことが槍玉に上がってたので、取り急ぎ読んでみました。
読んだ限り基本的に言っていることは、
以前見た「天才の栄光と挫折―数学者列伝」と一緒なので、
まあ、こんなことでもなければ読むほどのことも無かったかなとは思う。

(もののついでにこんな本も古本屋で\100で見つけたので、買ってみた。
「湧源(ゆうげん)国家論:広中平祐 著:PHP研究所」)

>藤原氏のような議論では日本のモラルハザード的状況の治癒にはならないし、現実から目を逸らすための言説としてしか機能しないような気がします。
(まこと さん)

んなことはない。それはただの分析力不足。
あるいは、本そのものを読まずにものを言っている。

そもそも藤原氏の論は、論議という以前に「仮説」なの。
はっきり言って、本の3章までの論は私の持論と大差ない。
(「武士道」や「惻隠の情」やらを展開しだす前まで。
私の場合は、論の出発点とする部分に「生物学」や「心理学」やらを置くため、
その後の展開は大きく異なることになるのだが。)
「右翼人士」が語るとき、後半部分ばかりを語っている気がするが、
貴方がた「左翼人士」の場合は前半だけを読んだほうがよい。
残りの部分は、「論理が出来る人」なら、ほぼ似たような形の展開になる。
(「論立てのやり方」の話。)
前提をあのように置けばこうなるという論であり、批判的考察もしやすい造りになっている。

>そもそも、明治以降に呼号されるようになった「武士道」なるもの自体が、近代イデオロギーの一種であって、別に<日本古来の伝統>では無いのでは?と感じます。
(以下略)
(まこと さん)

伝統の近代イデオロギーとしての再構成・再解釈であり、
そのようなものとして「うまく出来た」からこそ、伝統扱いされているの。
ついでに「武士道」の著述も、ちゃんと読んでいることは分かる。
もちろん政治屋である貴方のように、政治史や思想史の中で捉えているわけではないが、
「使える」と思ったからこそ論の出発点として使っているの。

>確かに藤原氏は新自由主義・グローバル資本主義反対の立場から米国のイラク戦争にも批判的ですが、それ以前の問題として、イラク反戦の前提である(同時に日本国憲法の立場でもある)人権・民主主義や論理的思考といったものにそもそも反対なのですから、「何をか況や」です。
(社会主義者 さん)

論理的思考に関しては、藤原氏の場合、そもそも人並みはずれてあり、
息をすることと同列の「絶対的前提」に置いた上での批判なのですよ。
林檎を握り潰せる人が「握手をするときには思いっきり握っちゃいけない」と語るのと同様、
言葉どおりに捉えちゃいけない。

そもそも藤原氏のような数論の人は、
数学者の中でも特に論理的思考力が強くなければやっていけない。
基礎論と並んで、他分野の数学者が「化け物のように頭がいい」人が揃っていて、
ひとつ間違えば「並ぶものなき揚げ足取りの達人」というくらいに
論理的思考力には秀でた人でなければやらない分野といわれているの。
(もちろん、私でもまず勝ち目は無い。他の論客も言わずともがな。)
そういう人が言う「論理的思考批判」は、絶対に否定ではありえないのですよ。

そもそも藤原氏の言っていることは、私の言葉に置き換えると、
「論理だけで社会を動かそうとすると、必ず人々を不幸に導く。
論理を語るときには、出発点の確認が論理より大事。」
なわけで、論理的思考の確保は絶対的前提です。

>ただ、左派の立場から言わせて貰うならば、(略)あくまでも「日本国憲法(に象徴される人権・民主・平等・平和といった進歩的価値)」にこそ基礎を置くべきであると思います。
(社会主義者 さん)

藤原氏の論は人権・民主・平等を「否定」しているのではなく、
(本の後半だけ見ればそう見えないことも無いが)
基礎としておくことに疑問を呈しているのですよ。
(今や「進歩的」の名を関するに値するのか?ということも含めて)

本に挙がっている例から抜き出すと、
「自由と自由は衝突する。例えば言論の自由はプライバシーを守る自由と衝突します。」
「平等な条件で競争すると弱肉強食となり、貧富の差が大きくなり、不平等となります。」
このようにいろいろ例外規定やら解釈やらを練らなきゃいけない代物を、
「ともすればパワフルなケチ付け屋」たる数学屋としては、
出発点として使うわけにはいかないのですよ。
民主主義に関しては、ヒットラー政権の誕生経緯を知る数学者は、
ほぼ間違いなく批判的意見を述べています。
(まあ、その先は人によりけりですが。)

人権・民主・平等・平和とかの様な18世紀生まれの「古い」価値観を
何かと置き換えて「進歩的価値」と呼べるものを創出しようという試みのひとつなのですよ。
 

「右からの新自由主義批判」論の補足  投稿者:社会主義者  投稿日: 4月 3日(月)01時56分49秒    編集済
   さとうしゅういちさん、ようこそ拙板に御出で下さいました。挨拶が遅くなって申し訳ありません。拙板管理人の社会主義者と申します。これをご縁に、今後も宜しくお願いします。
 現在話題になっている「右からの新自由主義批判」論ですが、発端となった3月29日付拙稿に、いくつか補足をしておきます。

■ どこまでを議論の対象とするか

 私は当該拙稿で「自分の態度を決めかねている部分が少しある」と書きましたが、其処には「どこまでを論の範疇に含めるのか」という問題もあるのです。私が論の対象にしているのは「右からの小泉批判」一般ではなく、あくまでも「右からの新自由主義批判」です。「弱肉強食反対・反リストラ共闘の一点で幅広い共闘体制、ひいては統一戦線が組めないのか、その可能性を探る」というのが、そもそもの私の問題意識として在りましたから。

 だから、弱肉強食・リストラ擁護のプロ奴隷(ネットウヨ)や「北朝鮮・拉致問題にかこつけて反共・反人権・排外主義を煽るだけのヘイトスピーカー」は、例えそれがいくら反小泉であっても、私としてはハナから議論の範疇外のつもりでいます。具体的に言えば、小泉や奥田日経連・竹中平蔵・石原慎太郎・安倍晋三・麻生太郎・西村真悟・岡崎久彦・本間正明といった人たちが、それに該当します。此処で小泉も「反小泉」も槍玉に挙げているのは、日本国憲法・教育基本法をとことん敵視し「国家・企業の奴隷たれ」と説くこれらプロ奴隷の両者の間には、何ら本質的な差異は存在しないと思っているからです。それに対して、少なくとも国民新党の人たちは格差社会や新自由主義に批判的な分だけ、これらプロ奴隷とは違うという認識でいます。

■ 「右からの新自由主義批判者」が持つ格差社会批判と改憲スタンスの間の矛盾

 ただ、綿貫さんにしても平沼さんにしても、「拉致議連」に属して改憲・教育基本法改悪を主張していたという点では、西村真悟らと同類であった事は否めません。亀井静香勝手連の掲示板も覗いてみましたが、あそこでも西村真悟を持ち上げたり靖国参拝を肯定したり(中に一人靖国参拝反対論者がいましたが)、果ては「現代版"大政奉還"を」なんて趣旨の書き込みまで在って、私自身は正直言って「何だかな〜」という感じを持ちました。

 国民新党の人たちは、確かにイラク戦争や新自由主義を批判していますが、その一方で「北朝鮮・拉致問題にかこつけて反共・反人権・排外主義を煽るだけで、その下での属米政治や格差社会の矛盾については何の痛みも感じない」ような政治家・財界人・御用評論家たちと、ついこの間まで行動を共にしてきたのも事実でしょう。その辺が最後まで引っかかっているのです。表向きのイラク反戦や属米政治・新自由主義批判が、「果たしてどこまで本気なのかな〜」という点で。

■ 戦前の社会大衆党に対する評価の違い(Re:はじめまして)

  4月1日(土)13時41分12秒投稿の貴投稿「はじめまして」文中の、「戦前の日本ですが、実は、結構民主主義だった」というくだりについて。当時の社会大衆党に対する評価については、ちょっと私のイメージとは違います。あの党は確か、労農党などの左派無産政党が3.15事件で弾圧された後に残った右翼社民の党で、最初こそ反共・反資本主義・反ファシズムの三反主義を唱えていましたが、実際は反共・親ファッショでしか無かった訳でしょう。確かに、戦前の一時期に社会大衆党に一定の国民の支持が集まったのは事実ですが、それは反軍感情と資本家政党(政友会・民政党)の腐敗・堕落に対する忌避感情がない混ざった複雑なもので、しかも当時の党指導部はとっくに反戦的立場を捨て去っていました。その系譜が戦後の社会党右派−民社党を経て今の西村真悟一派に続くのでしょう。

■ 「右からの新自由主義批判者」とは共闘・論争の両面で

 だからといって、私は国民新党の人たちに自分たちの価値観・歴史観・国家観を押付ける気はありません。立場や考え方の違いは互いに保留しながら、協力出来る部分については協力すべきだと思っています。国民新党にしても亀井静香にしても、「今の小泉自民党よりはまだマシだ」と思える部分は在ります。専守防衛としての自衛隊認知(この見地を突き詰めていけば確かに小林よしのり・西部邁などに代表される「反米・自立・核武装」の「日本帝国主義」の立場に行き着くので、それに対する警戒は怠れませんが)という立場に立ちつつも、対米属国政治や弱肉強食に反対し、そういう意味では「右なりに一本筋を通している」という点で、少なくとも「小泉自民よりはマシかな」と。徒に反共主義に基づく排除の論理を振り回したりしていない事も、私が彼の党を評価している点です。
 私は、彼らの世界観・価値観は肯定しませんし国民新党も支持しませんが、新自由主義反対の一点で共闘を組む事については別に異存はありません。「小選挙区で亀井に投票する代わりに比例は共産党に」という選択も、場合によっては「在り」だと思います。

 そう言いながら、私は、実はホリエモンにも期待していた部分もありました。「新自由主義者としての立場から、右翼反動の産経・現代コリア枢軸に風穴をあけた」という一点で。しかし、その後の格差社会を取り上げたNHKの特集番組で、ホリエモンの「格差があって何が悪い」という放言を聞いて、完全に見限りました。「コイツは、絶対に俺らの味方じゃないし、戦術的に手を組める相手でも無いな」「ホリエモンと亀井のどちらかしか選べないなら、まだ亀井の方がマシかな」と。

■ あくまで左派としては何を目指すべきなのか

 ただ、左派の立場から言わせて貰うならば、我々のバックボーンは「武士道」「葉隠」「惻隠の情」なんかでは無くて、あくまでも「日本国憲法(に象徴される人権・民主・平等・平和といった進歩的価値)」にこそ基礎を置くべきであると思います。いくら右傾化・反動化が進んだとは言っても、左翼が亀井静香や西村真悟の後塵を拝するまで落ちぶれたとは、私は思っていません。

 戦争責任や歴史認識の問題を曖昧にして天皇制や戦犯政治家を温存したまま跛行的発展を辿ったという戦後民主主義の限界は確かにありますが、それでも戦後60年の間に培われた人権意識の成長や市民運動の発展については、我々はもっと確信を持つべきであり、新自由主義を乗り越える倫理観や価値観も、基本的にはそこから創出すべきではないでしょうか。

 昨今の右傾化・左翼解体状況について付言すると、ソ連・東欧圏崩壊や北朝鮮問題や、日本経済の失速による時代閉塞感の強まりといった事の影響も勿論大きいですが(この問題はまた別途議論する必要があると思います)それとは別に、1980年の社公合意で「右への門戸開放」に踏み出した社会党が、中曽根臨調・行革で官公労・総評解体の餌食にされて完全に左バネを失い、その後の「売上税反対一揆」で示された大衆の革新的エネルギーをも何ら昇華出来ず、目先の政権欲に取り付かれて小選挙区制導入に安易に乗ってしまった結果、解党の果てに民主党に収斂されてしまったのが最大の原因です。そういう意味では当時の社会党の責任が大きいと思います。
 

追記(?)  投稿者:まこと@休憩  投稿日: 4月 2日(日)14時49分56秒    編集済
  >「日本の私」をやり直す  【著】長山 靖生 (中央公論新社) (三浦さん)

ご紹介の本は読んでいませんが、同じ著者による↓の本は結構興味深く読みました。

●【長山靖生・著「日露戦争〜もうひとつの「物語」」(新潮新書)】
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4106100495/250-8190847-4661027

当時の日本の民衆がいかに熱狂的に日露戦争を支持し、マスコミも一体になって好戦ムードを煽っていたのか、この本から窺い知ることができます。

ところで、さとうさんは「戦前は結構民主主義的だった」と指摘されますが、私はその戦前の「デモクラシー」状況がなぜ日本ファシズムへと転化し、原爆投下などを通じて日本の国土が壊滅的なダメージを蒙るまで日本の社会が「十五年戦争」の泥沼から抜け出すことができなかったのかということを、時々考えます。

●【小森陽一ほか・著「日露戦争スタディーズ」(紀伊國屋書店)】
http://www.ne.jp/asahi/chronicles/map/modern/nichirostudies.htm

に納められている成田龍一氏の論文「「国民」の跛行的形成−日露戦争と民衆運動」は、そうしたテーマを考える上で格好のヒントを与えてくれる論述の一つだと感じました。

成田氏は日露戦争の「熱狂」を通じて「国民」として統合された都市大衆による社会運動も発展の一契機となった戦前日本の「デモクラシー」とは、そもそも帝国主義・排外主義の抑止という面では脆弱さを抱え込んでいた「帝国のデモクラシー」であったことを、日露戦争に熱狂し、その後日比谷焼き討ち事件などで騒乱を起こすことになる当時の一般大衆の「排外主義」性に光を当てつつ、指摘しています。

戦前の歴史とこの21世紀を同一視する気はありませんが、自称「民主主義」国家・日本の社会で拡がりつつあるショービニズム的状況と相通ずる面もあるような気はします。
 

Re:「右からの新自由主義批判」をどう評価するか?(2)  投稿者:まこと  投稿日: 4月 2日(日)04時19分39秒    編集済
  さとうしゅういちさん、はじめまして。

>藤原氏は、
>「ナショナリズムは、戦争につながりやすい、不潔な考え方」としており、
>本を読む限り、ナショナリズムについては、疑問の立場です。(さとうさん)

どうでしょうか。
藤原氏が説くような類の「社会道徳としての武士道精神」自体が江戸末期から明治以降の近代日本国家建設の過程の中で涵養された「思想」であるでしょうから、私は藤原氏の議論もまた一種のナショナリズムとみています。

>藤原氏の本が売れる理由は私は何となく分かりますけどね。(三浦さん)

私もそれなりに分かるのですが、藤原氏のような議論では日本のモラルハザード的状況の治癒にはならないし、現実から目を逸らすための言説としてしか機能しないような気がします。

例えば、藤原氏は「株主中心主義」を批判しますが、私はそもそもこの日本に欧米で考えられているような株主主体の経営なんてあったのか?と思うんですね。この国では銀行を軸とした企業間の株式持合いの慣行が長らく続き、主要株主は実はメインバンクだったり取引先だったりする例が多かったというのが実態だったと思います。株主総会も「シャンシャン総会」でお茶を濁すことが許されたり、嘗ては株主が経営者を相手取って訴訟を起こす事例も殆どありませんでしたから、株主によるチェック機能が十全に機能することも無かったですし、また企業利益の還元としての株主への配当も極めて低額に抑えられてきました。

そういう意味では、日本の企業社会では現代資本主義社会で必要とされるべき倫理"すら"確立されてこなかったと思うんですね。しばしば現代グローバリズムはアメリカニズムだという批判されますが、この国はその米国の市場倫理の水準にも及ばないのが現実だと思います。

そして、金融ビックバン・BIS規制の導入・国際会計基準の採用など、いわゆる経済のグローバリゼーションが深化するに連れて「資本主義社会に本来求められるべき倫理が不在の日本型資本主義」の綻びが現れはじめた−昨今の企業スキャンダルにはそういう一面もあろうかと思います。

つい最近まで「時代の寵児」扱いされていたライブドアにしても然りです。彼は世間では恰も「先進的な企業経営者」であるかのように扱われてきましたが、黒字決算にも係わらず(もっともその決算の内実は「虚飾」であったことが今や白日の下に晒されている訳ですが)株主総会で個人株主から配当の実施を求められても「お涙ちょうだい」で誤魔化そうとするホリエモンの姿を見るだけでも、彼の投資家を蔑ろした経営実態が垣間見えてくるように思えます。

日本的な社会構造自体がグローバリズム化の影響を受けて変化しつつある中で、藤原氏のように擬似伝統「思想」に依拠して倫理観を模索しようとしても無理があるような気がします。「鎖国」でもするなら話は別でしょうけど。社会の変化を直視し、その変化に相応しい倫理観の構築なりオルタナティブの模索なりを行っていくべきなのではないかというのが私見です。
 

はじめまして  投稿者:さとうしゅういち  投稿日: 4月 1日(土)13時41分12秒
  はじめまして
私の記事が取り上げられているようなので、若干コメントさせていただきます。

藤原氏は、
「ナショナリズムは、戦争につながりやすい、不潔な考え方」としており、
本を読む限り、ナショナリズムについては、疑問の立場です。

また、私も、藤原氏を全面肯定しているわけではなく
「私個人は民主主義、人権は大事」
と記事の中では反論はしています。

しかし、旧来左翼のリベラリズム一本では、小泉総理には対抗し得ないのではないか?
大谷昭宏、テリ−伊藤、田嶋陽子らリベラル派知識人が9.11総選挙で
いっせいに郵政民営化賛成で小泉を事実上持ち上げたことことを目の当たりにして
それを痛感しました。
社会を大事にするとかそういう精神がないので、結局、総理に取り込まれた
わけです。

伝統、とか、品格とか、道徳とか、そういうものと、アウフヘーベンした形での
民主主義、論理が大事ではないかと思います(藤原氏も論理は否定していません。
しかし、論理の出発点を形作る情緒が大事ではないか、ということです。屁理屈を
こねて、逃げ回った前原などを見ると、全くそうだと思いますね。民主党の若手というのは
屁理屈ばかりで、民衆への共感とかそういうのがゼロですね。だからめちゃくちゃです。
自民党のほうが情があった思いますが、亀井さんや綿貫さんを排除してイエスマンばかりにした
から変質してしまいました。)

戦前の日本ですが、実は、結構民主主義だった。社会大衆党という左翼政党が
35議席をとったこともあります(今の共産・社民をあわせたよりはるかに多い!).
藤原氏よりは私は民主主義には肯定的ですが、戦争を防ぐ十分条件では
ないと思います。民主主義にプラスアルファして、アダムスミスのいうところの、
「他者への共感」が必要かと考えています。

 ちなみにわたしは、大谷昭宏氏らよりは、藤原氏のほうがましだと思っています(大谷昭宏氏は護憲派を自称しながら、自民に荷担して、改憲を促進したという意味で罪は重い。最近では
野口さん惨殺事件を「警察が自殺というのだから自殺なのでしょう」と言い放った。小泉政府の走狗と化した断言してよい。)。

今は、大谷・テリー的リベラル派知識人と小泉総理ら、ネオコンが連合して、ファシズムを形成している。そして、ネット右翼は、共産党も社民党も、市民派もも藤原氏も国民新党も同じように「左翼」「社会主義者」「プロ市民」と攻撃しています。彼らの目から見ると同じに見えるのでしょう。市場原理主義に反対すればすぐ「社会主義」のレッテルを貼る風潮が蔓延しています。

その中で対抗するには、国民新党的反新自由主義・反戦の保守主義者と、共産・社民的リベラル左派の連合で、とりあえず対抗していくしかないでしょう。残念だが、それが現実です。それとも、これ以上、増税や雇用破壊の痛みに耐えられますか?私は、そんな「窮乏革命論」はとりません。
保守主義者がいないほうが良いというのは、昔の社会ファシズム論と同じ誤りだと思います。藤原氏のように、「国際貢献などしなくても良い」という開き直りも、また、ひとつの、海外派兵を止めていくやり方ではないか、とも思うのです。

ちなみに、増税を阻止するのに正しい議論は、国民新党の議論です。共産党の公共投資削減論だと、逆に小泉に逆手に取られて生活関連や交付税を削られて、「歳出カットの努力をしましたから増税をさせてください」といわれたら反論できないからです。マクロ経済学を知らない議論だと思います。亀井さんは、自民政調会長時代に、一方で、第十堰とか、中海干拓とか2兆円をばっさり切りました。その上での、積極財政論です。メリハリがついているのです。(だから、彼は建設業協会の恨みを買い、あまり応援してもらえなくなりました。今回の総選挙で亀井さんに入れたのはむしろ無党派層で、利権と関係ないが、一方で地方経済を何とかして欲しいと願う人々というのが実像です。)

 ちなみに、国民新党支持者の多くは、イラク派兵に反対ですし、共謀罪など人権制限法案にも反対です(亀井静香勝手連掲示板にくれば分ります)。また、ナショナリズムを煽って構造改革の矛盾から目をそらそうとする自民党内右派についてもかなり批判的です。私が、冗談半分に共産党と国民新党の合併はどうか?と提起したら、怒られるかと思ったら、彼らはそんなに共産党にアレルギーはないようでした。さすがに合併は無理だろうが、政策共闘(増税反対、米軍再編反対、イラク戦争反対、人権「擁護」法反対)、選挙共闘は良いだろうということ。ちなみに、広島6区では、「比例は共産」ということで、共産党幹部が、亀井陣営に、バーターでの選挙協力を裏で申し入れています。実際、共産党の票は、大分前回より増えました。共産党支持者はほぼ全員亀井氏に入れ、一方亀井支持者の一部には共産党へ向う動きがありました。良いことだと思います。これを多くの選挙区でできたら面白いのですが(大阪や京都などでは逆に共産党候補を推してもらえばよい)。

日本帝国主義を追い払うために国共合作を行った毛沢東を見習い、アメリカ帝国主義を追い払うための「国共合作」のときがきたと思っています。

http://www.f2.dion.ne.jp/~hiroseto/

 

『国際人・新渡戸稲造』  投稿者:伊達 純  投稿日: 4月 1日(土)11時46分50秒
   私の行った大学は、相模原市にある職業訓練大学校(現在「職業能力開発総合大学校」)だったのですが、英語の担当教員だった松下菊人さん(私も英語を教わった)の著書に『国際人・新渡戸稲造』というものがあります。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4890290974/qid=1143858443/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-4010553-3996242

 全国大学生活協同組合連合会の発行している『読書のいずみ』という冊子があるのですが、その第33号(表紙が宮崎駿の『となりのトトロ』! しかも宮崎と当時の大学生との鼎談も掲載されている)に、松下さん、職業訓練大の数学教員、同大女子学生との鼎談が掲載されていたので、憶えていました。

 ちなみに最近、友人が同大学へ行ってみると、件の女子学生と会ったそうで、私のこともおぼえていたそうです。

 松下さんとは、大学卒業後、十年ほどたって、昼間、近所(大学の近辺にまだ住んでいた)を散歩していたら、犬と一緒に散歩しているのに出会いました。もう退職しておられて、悠々自適の生活をしているとのことでした。

 『国際人・新渡戸稲造』を読んでいないので何とも言えないのですが、松下先生の印象は、柔らかな物腰で、大変好感を持っていました。

 とりとめがない書き込みですが、参考までに。
 

新渡戸稲造の偉大さは  投稿者:三浦小太郎  投稿日: 4月 1日(土)10時57分34秒    編集済
  新渡戸稲造の偉大さは、日本精神をただ夜郎自大に賛美するのではなく、欧米社会、イや世界でも通用する普遍的な美点を持つものとして描き出したこと。私は藤原氏の本はまだ読んでいないので評価はできませんが、新渡戸の「武士道」は左右ノンポリ関係なく読んで損のない本だと思います。

勿論、ここで書かれている武士道は基本的にはフィクションというか、クリスチャンでもあり、欧米の文化を深く理解していた著者が、武士道を徹底的に近代化、美化した幻想である、といわれればその通り。しかし、たとえそうであっても、新渡戸が日本国内で当時ですら時代遅れとされかかっていた前近代社会の美点を普遍化して再評価し,近代明治国家でも引き継ぐべき精神を見出したこと、また世界に向けて発信できる価値観を打ち出そうとしたことは偉大な業績。しかもそれを英語で書いて欧米で発表し、それなりに評価を受けたというのは、やっぱり、明治の精神ってすごいなあと素直に思いますよ。ちょっと読んだだけで、この時代の知識人の教養や知識は半端じゃないってすぐ分かります。いきなりエドモンド・バークとか出てくるしねえ。

ただ、藤原氏の本が売れる理由は私は何となく分かりますけどね。まことさんや社会主義者さんが、藤原氏の思想を批判するのはいいけれども、その本を共感して読んでいる民衆に、藤原氏とは違った形での「品格」「礼節」「道徳」「伝統」を提供することが必要なんだと思う。

ちょっとその意味で、私はこの本はおすすめです
「地べたに座り込む乱れた若者」は元々日本の伝統である、自分もやってみたら結構楽しかった、とまで言い切れる「保守思想家(靖国も日の丸、君が代にも賛成)」の好著ですよ。

「日本の私」をやり直す  【著】長山 靖生 (中央公論新社)

あと、江戸時代の面白さ(特に大阪のバブル経済と、その中で起きた心中事件の意味)を教えてくれる一冊は

心中への招待状 小林恭二 文春新書

これも一気に読めます。未来もあり、経済的にも全然困っていない男女が何故心中したのか、江戸時代の大阪の爛熟文化のすごさが分かります。
 

米国の移民法強化反対デモ  投稿者:社会主義者  投稿日: 4月 1日(土)09時50分12秒    編集済
   先のまことさんの出入国管理及び難民認定法改定案関連の投稿内容とも関係ありそうな話題なので、下記のニュースについて此処でも少し取り上げてみます。

・移民法強化で全米的反対デモ(世界日報)

>米移民法を厳格化しようとする米議会の動きに対して人権団体や労組、宗教団体などが組織的反対デモを全米的に展開し、ロサンゼルスではベトナム反戦デモを超える約五十万人の「史上最大規模のデモ」(ロサンゼルス・タイムズ紙)が二十五日にダウンタウンの市庁舎前で行われた。中間選挙、さらに大統領選挙の重要争点としても浮上しており、国論を二分する議論が活発になりそうだ<
>昨年末に下院を通過した法案は、米国に在住する不法労働者を民事罰でなく刑事罰に処すとともに、違法な移住を助けた人物にも罰金を科す内容。またメキシコと米国との国境の間に不法移民侵入を防ぐためのフェンスの強化や監視の増強措置が盛られている。<
>こうした下院の法案通過を受けて今週から上院でも移民問題が審議されており、不法移民の処遇、罰則の強化問題に加えて、ゲストワーカー制度の導入、国境警備強化問題で激しい議論が展開されることが予想されている。カリフォルニアや各地で起きているデモは、こうした議会の論議に移民の人権擁護の立場から影響を与えようとするもので、インターネットや携帯電話のネットワークを使った組織的参加呼び掛けが功を奏し、大規模なデモに発展している。四月十日には全米十都市で抗議行動が計画されている。<
 http://www.worldtimes.co.jp/w/usa/usa2/kr060329.html

 あちらでは、「ロスでベトナム反戦超える史上最大規模のデモ」「移民問題が米国中間選挙、大統領選の重要争点としても浮上」という状況だそうです。

 そもそも、米国そのものが移民によって国が作られてきたという歴史があります。アメリカ先住民から見たらアングロサクソンの移民も全て「不法移民」な訳です。現在ヒスパニックを中心に移民規制反対の声が上がっていますが、これもそもそも、カリフォルニアからアリゾナ・ニューメキシコ・テキサスにかけての一帯は元々彼らの土地でした。独立してまだ日も浅い米国が、やがて始まる西部開拓時代を前にして、メキシコから領土を強奪して出来たのが、今の米国南西部諸州です。そう考えると、「不法移民を規制しろ」という一見尤もとも思えるような米議会の動きですが、別の角度からはまた違った見方が出来るのでは。

 米国の移民問題については私も余りよく知らないので、この辺にしておきます。

【参考資料】

・保守派と草の根−アメリカの移民支援運動
 http://www5d.biglobe.ne.jp/~okabe/hontamin/undo.html
・ラテン系市民が「メガマーチ」、アメリカ(ラテンアメリカから見ると)
 http://la-news.cocolog-nifty.com/lanews/2006/03/2701_4d64.html
・米国年表 その1
 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/chronology/usa/usa1.htm
 

Re:「右からの新自由主義批判」をどう評価するか?  投稿者:まこと  投稿日: 4月 1日(土)08時03分43秒    編集済
  >「日本の文明は情緒と形の文明」であるとする藤原さん。本人も数学者で、米国への留学経験があり、帰国後もしばらくは、論理的思考至上主義だったということです。しかし、次第に違和感を持つようになり、英国で伝統を重んじる人に会い、情緒=教育によって培われるもの、形=武士道精神からくる行動基準の比重が心で高まっていったということです。(JanJanの「さとうしゅういち」さんの記事より)

http://www.janjan.jp/government/0603/0603221244/1.php

そもそも、明治以降に呼号されるようになった「武士道」なるもの自体が、近代イデオロギーの一種であって、別に<日本古来の伝統>では無いのでは?と感じます。そういう意味では、藤原氏が批判してやまない「(近代)民主主義」や「国民主権」「人権」なるものと、氏が称揚する「武士道」なるものは、実は五十歩百歩なんだと思いますね。

藤原氏は新渡戸稲造の「武士道」を高く評価しているけど、おそらく氏は新渡戸の著述をちゃんと読んだことはないんじゃないかなという気がします。近代批判するのは良いけど、そのための「ネタ」として近代イデオロギーを引き合いに出されてもねえ〜、と思います。

新渡戸「武士道」自体、もともとは欧州における「黄禍論」的な対日偏見に反論するために出版されたものであって、新渡戸自身は日本人に「『武士道』を重んじるべきだ!」なんてことを主張することを眼目に置いてこの本を著した訳ではありませんしね。もっとも、その後、この著述が近代日本における「国民」統合のための格好のイデオローグとして「利用」されるようになった訳ですが。

日々を懸命に生きる「保守」的な民衆の琴線にも触れる訴えをせねばならないという「さとう」さんの主張は理解できますが、藤原氏のような「思想」をヨイショするのはどうかな、と思いますね。私は藤原氏が説くような擬似伝統「思想」にこそが嘗て「偏狭なナショナリズム」を産み出し、「ヒロシマの惨禍」という結果に至った苗床だと捉えていますし、氏が説くような類の擬似伝統に依拠したナショナリズム言説に安易に回収されてはならないな、と私は考えています。
 

参 考 投 稿
「右からの新自由主義批判」をどう評価するか?  投稿者:社会主義者  投稿日: 3月29日(水)01時35分21秒    編集済
   この直近の拙稿でも国民新党の例を出しましたが、私は実は「国民新党(若しくはそれに代表される「右からの新自由主義批判」とも言うべき潮流)について、どう見るか」という事について、自分の態度を決めかねている部分が少しあるのです。これは表題に掲げたテーマとも関わってくる事ですが。

 国民新党は、先の総選挙では「権力の暴走を許すな」というスローガンを掲げて、小泉政権が進める郵政民営化やイラク戦争への自衛隊派兵に反対しました。また、社共両党が候補者を擁立しなかった衆院小選挙区の広島6区では、国民新党の亀井静香が無所属(実際は自民党が支援)のホリエモンを3万票弱引き離して当選している訳ですが、この小選挙区の亀井票の中には、少なく無い革新票(小泉新自由主義批判票)が紛れ込んでいると、私は踏んでいます。実際、この選挙区では民主党候補も元・自由党出身者で小泉政治には親和的な立場を取っていましたから、小選挙区でそれに反対の意思表示をするには、もう亀井に投票するか棄権するかしか、選択肢はありませんでした。
 http://www.janjan.jp/sousenkyo/2005/shosenkyoku/0244.html

 他方、この党の系譜というのは小泉以上にズブズブの保守本流でもあるのも事実です。党の国家基本政策を見ても、自衛隊を「専守防衛の軍隊として憲法に明記」し防衛庁の省昇格を主張していますし、「国家の伝統を守れ」「皇室典範改正には慎重な対応を」という主張からは、靖国参拝や教科書問題に対しては小泉自民党以上に復古的・反動的な立場を取っている事が窺い知れます。
 しかしその一方で、米軍第一軍団司令部の座間移転には反対しイラクからの自衛隊撤退も主張しています。そして、小泉政治と揶揄される独裁的政治手法や弱肉強食の新自由主義・グローバル資本主義推進政策に対しては、右派の立場から批判しています。そういう意味では、元タカ派防衛族で自衛隊イラク派兵違憲訴訟を起こした箕輪登氏や、同じく元タカ派ではあるが晩年は昨今の右傾化・「大政翼賛会」的政治状況に異を唱え続けた故・後藤田正晴氏の政治的立場に近いのではないか、という気がします。

・国民新党 公式サイト
 http://www.kokumin.or.jp/katsudou-houkoku/
・人間図書館 故 後藤田正晴元副総理
 http://www.tfcc.or.jp/govem/gotouda.html

 ここで問題なのは、では「小泉政治や新自由主義に批判的でさえあれば、靖国史観や改憲・海外派兵を肯定する立場でも何でも良いか」というと、勿論そういう訳には行きません。例えば、JANJANのさとうしゅういち氏の記事には私も頷かされる事が多いのですが、こと下記記事の内容に限って言えば、私としては賛成いたしかねます。

・藤原正彦さん「国家の品格」を読んで(JANJAN)
 http://www.janjan.jp/government/0603/0603221244/1.php

> 家族愛、そして、郷土愛、その延長線上に祖国愛、そして人類愛。ナショナリズムは、戦争につながりやすい、不潔な考え方だが、文化や伝統を愛する祖国愛は必要ではないか(むろん、国家の指導者は国益のためにナショナリズムを必要悪としてもっている必要はある。ただし、一般国民はこれを敬遠しまた監視するという心を持つべきということ)、と筆者(注:藤原正彦氏)は言います。 <
> 筆者(注:同上氏)は、最近良く見られる道徳や愛国心を強調する保守派とも一線を画しているように見えます。これらの保守派は、排外ナショナリズムを煽り立て、構造改革の矛盾から目をそらそう、そして、自民党タカ派の50年来の宿願である、憲法「改正」、教育基本法「改正」を強行しようというものです。 <
> 旧来左派のリベラリズムやジェンダーフリー主義だけでは結局容易に総理や猪口男女共同参画大臣、前原民主党代表ら新自由主義者に都合の良いところだけ取り込まれ、利用されてしまう。亀井さん、平沼さんら旧来自民を叩く振りをしたり、公共投資をカットしたり、クリーンな雰囲気を醸し出したり、表面上とはいえ男女共同参画を推進しているのに溜飲を下げてことの本質を見失うからです。 <
> 積極的に、日本的なものの良い部分を押し出して経済、暮らしを立て直していく。世界平和のために文化を発信していく。構造改革に不満を持つ保守派に対しても、偏狭なナショナリズムではなく、藤原さんの言う、「祖国愛」、そして、相互に惻隠の情を持った文化を大事にしていくことこそを呼びかけていく。こういうところが必要ではないかとあらためて思いました。 <

 上記は前掲JANJAN記事からの引用ですが、正直言って「これは違うのでは」と思います。下記はまことさんが以前拙板で紹介してくれた藤原正彦氏のサイト「草莽崛起−PRIDE OF JAPAN」ですが、これを読む限り、どう見ても「偏狭なナショナリズム」以外の何物でもないでしょう。確かに藤原氏は新自由主義・グローバル資本主義反対の立場から米国のイラク戦争にも批判的ですが、それ以前の問題として、イラク反戦の前提である(同時に日本国憲法の立場でもある)人権・民主主義や論理的思考といったものにそもそも反対なのですから、「何をか況や」です。

※注:上記サイト「草莽崛起−PRIDE OF JAPAN」URLは下記参照。
 *ttp://prideofjapan.blog10.エフシー2.com/blog-entry-254.html
 但し、上記「エフシー」の部分はアルファベットに置き換えてアクセスする事。
 URL中に「FC2」という文字があると投稿できない為。

 同じ「右からの小泉批判」でも、「人権・民主主義」とか「社会的弱者」をどう見ているのか、という事で、その「小泉批判」の内実が図らずも炙り出されるのではないでしょうか。
 これとの対比で、先に「左派の言う人権・民主主義」について考えてみます。左派のいうそれらの言葉が、実は「ソ連・中国・北朝鮮の擁護であった」「弱者保護に隠れた逆差別・差別利権の温存であった」「拉致被害者を見捨てたではないか」等々と批判するのは、それはそれで良い(私は必ずしも肯定はしないが)。ではそういう人たちは、左派の様に試行錯誤をしながらも、「右は右なりに」人権・民主主義を守ろうとしてきたのか、「弱肉強食」の現実に対して本気で怒ってきたのか、その内実が今度は問われなければならないでしょう。

 何でこんな事を書くかと言えば、「右からの小泉政治批判」を行う潮流の一部に対しては、私はどうしても猜疑の念を拭う事が出来ないからです。

 例えば、「反小泉」派の拉致問題支援者。これらの人たちは今でこそ「反小泉」ですが、それは小泉が平壌宣言に署名して日朝国交正常化に動き出したからであって、それ以前は多かれ少なかれ自民党や小泉構造改革の支持者だった人たちではないですか。今でこそ郵政民営化や格差社会や小泉政治の独裁的手法を批判したりする人たちもいますが、それは小泉政権がたまたまそういう対北朝鮮政策をとっているから<だけ>であって、若し小泉政権が逆に北朝鮮経済制裁に積極的であれば、これらの人たちは、郵政や米国牛肉輸入再開やPSE法や新自由主義にも賛成していたでしょう。

 また、例えばネットウヨク。これらの中には「反小泉」を標榜している一派もいますが、その理由も前述の拉致問題支援者と同様、単に反「特定アジア」の排外主義・ショービニズムを煽りたいだけでしょう。何かといえばマイノリティや社会的弱者を貶めるヘイトスピーチしかしない人たちが、小泉新自由主義の反人権政策に反対な訳が無い。実際、これらの人たちはイラクで殺害された日本人外交官や家族会へのバッシングには反対しながら、イラク人質事件被害者には同じ様なバッシングを加えました。これらの人士が言う人権・民主主義というのは結局の所、某イカサマ・ネットウヨクの言を借りれば<国家主義者や親政府的立場の人間の上にのみ輝く>のでしょう。

 はたまた、例えば石原慎太郎。こちらは時と場合によっては「反米・反小泉」的言辞を弄したりもするので、一部には「反米愛国の憂国の士」と見る向きもあるように見受けられますが、何の事は無い、全国自治体首長の中で唯一、在日米軍再編強化・司令部機能日本移転に諸手を上げて賛成しているじゃないですか。高尾山への圏央道建設強行や大企業本位の都市再開発を、小泉政治さながらの独裁的手法で率先して行っているではないですか。横田基地返還要求も実際の中身は日米軍民共用空港化推進でした。例の「ババア」を始めとする数々の暴言にしても、人権感覚を疑うようなものばかり。石原の言う「反米・反小泉」は単なる目眩ましであり、実際は「日本一国主義者」ですらなく、実は小泉以上に新自由主義政治推進の俗物でしか無い。

 それらと比較すると、国民新党の何人かの政治家の発言には、「ひたすら日米同盟在りき」でその為には日本国民の犠牲もイラク人民の犠牲も等閑にする小泉自民とは違い、それなりに筋の通ったものが感じられるのも事実です。「自衛隊イラク撤退」「米国属国政治・弱者切捨て反対」には、それなりに「右としてのポリシー」が感じられます。ただ、彼らがどこまでそれを本気で追求しようとしているのかを考えると、単に「反小泉」の対抗上そういう反政府的なポーズをとっているだけではないか、という疑念も当然あります。下記の「一見民主的とも思える」発言も、国民新党の改憲・伝統志向・戦前的価値観への憧憬・靖国史観肯定の政治的立場を考えると、どこまで信用してよいものやら、と思います。

・国会NOW:あっぱれ綿貫氏 議会の自律権(JANJAN)
 http://www.janjan.jp/kokkai_watch/0603/0603251401/1.php
・立法府と行政府の垣根がわかっていない。(綿貫民輔前衆院議長)(とくらBlog)
 http://ttokura.exblog.jp/

 ただ一点だけ国民新党を評価する点を言うと、自身の政治的立場を他党派や他の政治的立場に強要はしない点です。郵政民営化反対なら純粋に郵政民営化反対だけで共闘しようという点については、素直に評価出来ます。「救う会」みたいに、教科書問題や強制連行、歴史認識や国家観の問題を、拉致問題に絡めて持ち込んできたりはしない。そういう意味では評価出来る。

 後は、この党の言う「右なりの小泉政治批判」「右からの新自由主義批判」が、どこまで本気で、人権・民主主義・平和・平等・社会的公正を追求しようとしているか、社会的不正義や弱肉強食への怒りを持ち合わせているか、という所でしょう。それなりに「山椒もピリリと辛い」と存在感を発揮出来るか、それとも単なる「小泉個人へのアテツケ・私怨晴らし」に終わるのか、それは今後じっくり見させてもらう事にします。
 

 
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